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2018.08.15

手技

 

 

 

私が所有している手作りの道具の中で、最も特別な存在のものがある。

 

種鋏だ。

 

 

 

 

 

ポルトガル船漂着による鉄砲伝来で知られる鹿児島県種子島。

砂鉄も多く取れるこの島の鍛冶職人たちは高い技術を持ちながらも、時代の流れと共に、作る物を刀から鉄砲へ、後には家庭で使う料理包丁、裁縫で使う鋏作りへと変化させてゆかざるを得なくなったという。

なかでもその鋏の見事な切れ味と美しいフォルムは、種鋏と呼ばれ多くの人々に親しまれたらしい。

 

私が手に入れたのは、8年ほど前。

今では手打ちで作り続ける職人は一軒だけとなり、後継がなく途絶える寸前であるというテレビ番組の特集を見た他県の青年が、弟子入りを願い出て受け入れられたという話を耳にした頃だった。

 

手に入れる前までは、同郷の伝統品が欲しい。

切れ味のよくない鋏はストレスがかさむ、旅のよい機会だ。

そんな軽い思いで取扱店を訪れた。

しかし、全行程がひとりの職人によるものである手打ち鋏を寸法別にズラッと並べられたのを見た瞬間、それぞれに紛れもなく宿るものを感じ心の奥が静まり返る思いがした。

 

これらはただの土産物ではない。

バッグを肩に引っ掛けたまま販売員の説明を聞くのは、不適切に思え

即座にバッグを床に置いた。

バッグを置いた途端、販売員は軽くうなづきより熱の入った説明をして下さった。

どの話も新しい知識となるとても興味深いものばかりだった。

 

包丁や鋏、刃物とは何を切るかによって使う刃の場所が違う。

薄いものを切るときには、鋏の先端を使い、分厚いものを切るときには鋏の刃の奥の方を使う。

改めて問われるならば知識としては知りつつも、いざ切るとなると無意識のうちに鋏の中央部分の刃でせかせかと切りがちだ。

 

種鋏は、かみ合わせると刃の中央部分はふんわりとカーブし少しだけ隙間があり、刃の先端は寸分の狂いもなくかみ合っている。

動きも吸い付くようななめらかさだ。

 

試し切りに渡されたティッシュペーパーを、10年使っているという種鋏を使用し、刃の先端でほんの少しだけ切ってみた。

著名な刃物メーカーの新品の鋏でも同じように試してみた。

切れ味だけではない。

音も違う。

切断面がスパッとまっすぐに切れている。

肉眼で確認できなくとも分かるのだ。

 

切り離されたものと切られたもののそれぞれの縁がピンと反れあがっている。破壊されずに切り離されている。

 

鋏で切るという行為は、実はこの感覚なのか。

静まり返った心の奥がどよめきたった。

 

 

私にとってこの素晴らしき手作りの道具を所有していることは、物言わぬ師匠を得ているに等しい。

 

 

恐れを感じるほどの見事さ。

 

手が生む特殊な技は、尊さと恐れが表裏一体である。

全く知識や情報を持たない人の心を、わし掴みにする迫力が備わっている。

 

それが、本物である証しなのだろう。

 

この鋏を見る度に私はずっしりと頭を垂れる。

 

 

 

 

2018.08.08

善き1日

 

 

 

今月に入ってから突然慌ただしくなりあっという間の1週間。

 

来月の山口県での個展、その翌月の佐賀県での個展の準備に勤しんでおります傍ら、世の中は週末からサマーホリデイなのだと、スケジュール張で知る。

 

 

 

 

個人的には、サマーホリデイ返上の日々になりますので、済ませておくべき諸用などを整理していると、あっという間に日が暮れている。

 

もう暦の上では立秋。

私の頭の中もそろそろ夏仕様にもいささか飽きて参りまして、早く秋の支度がしたいなと奥の方へと仕舞い込んでいる秋の装いや、しつらえもののあれこれを覗いてみて、はやる気持ちついでに触ってみる。

わ!まだ暑いわ!

 

と、マヌケなことをやっております。

 

夜の日課となっているヨガのレッスンもお盆期間中は休講。

街もきっといつもより静かな1週間となるのでしょう。

昼間はしっかり働いて、夜には心地よくエアコンの効いた部屋で、3年前からはまっております落語のDVDと読書ざんまいでちょいと休日もどきのリフレッシュを愉しもうと検討中。

 

うーっむ。

 

やっぱり、くつろぎ方も既に秋だ。

 

しっかり働き、やるべきことをやり終えて、充足感のある食事を済ませ、安らぎの時を味わう

特別なことがあった日よりも、いつものようにして1日をきちんと終えられる時、

本日も善き1日だった。

 

心からそう思うのです。

 

 

2018.08.01

失われゆく貨幣

 

 

かつてヨーロッパ中の貨幣が統一されるという話にも驚いたが、今では、貨幣そのものがこの世から消えるという、過去には考えられなかった時代へと突入しつつある。

 

 

 

 

 

 

10年ほど前に訪れたオランダ、アムステルダムでのこと。

滞在ホテルの近くの結構賑わっているスーパーを昼に見つけていたので、夕刻買い出しに行ってみた。

そのスーパーは商品陳列も美しかった。

日本人と比較すると圧倒的に平均身長が高いオランダ人。

買い物カゴも日本とは違っていた。

素材は日本のものとほぼ同じなのだが、形状が縦長の箱型になっているもので、キャビンアテンダントが引いている車付きの手荷物カートタイプ。

持ち手の部分をスルッと引っ張り上げて使うスタイルだった。

 

陳列する野菜や果物を選ぶ際も、お隣の人のカゴを気にすることなく手を伸ばすことができるし、ダースで買うビールやペットボトル、自分の持っているバッグを引っ掛けるフックも付いている。これならば、カゴが重すぎて買い忘れたものを諦めるということもなく、買いたいもののコーナーに戻ることも苦にならない。

商品の品質表示もじっくり読める。

 

なるほど、所変わればだなぁ。

スーパーの買い物が新鮮に感じてウキウキした。

 

清算をしようとレジに並んだ。

レジは6カ所。

みなさん、きちんと2列に並んでいた。

大きなモニターに音と共に表示される番号のレジに順番がきたら向かう。

 

清算を済ませようとユーロ紙幣を出したら、キャッシャーの女性が私の顔を見て言った。

 

この店は、クレジットカードしか使えない。

カードは持ってないか。

 

驚いた。

 

当時、日本では現金しか使えないスーパーはあっても、クレジットカードしか使えないスーパーとは聞いたことなかったので、聞き間違いじゃないかと尋ね直した。

 

なるほど、夕方の混雑する時間帯にしてはどうりでレジがスムーズに感じたわけだ。

 

10年後の現在、同じヨーロッパ北部スウエーデンでは、今、キャッシュレスが進行しているらしい。

今思えば、もう、あの頃から、北部ヨーロッパではにわかにシフトしていたことだと、10年前の体験が線となってつながった。

 

貨幣を見ることがなくなるというのは、私にはどうにもピンとこない。

 

画像は、滞在中、アムステルダムで訪れたバッグミュージアムに展示されていた、ちっちゃなシューズの形をしたコインケース。

 

こんな可愛らしいコインケースやお財布も用事なくなるのかしら。

なんだか味気ない、そう思いません?

 

 

 

 

2018.07.25

表裏一体な未知と既知

 

 

この道の先にある景色、そこで出会う変化。

この場所から動かない限りは、全て未知、未来のままだ。

向かって歩き始めると、未知は経験に、未来は現在を経て過去へと進行する。

 

 

 

 

 

この景色は、過去に訪れた地中海寄りのスペインの車窓から見た村のようでもあり、どこかの美術館で見入った印象派の絵のようでもあった。

 

どこか自分に深く関わったような場所のような錯覚に陥入り、溢れそうな郷愁の念に感傷的になった。

 

ここは、福岡県北部にある平尾台。

山口県の秋吉台に並ぶカルスト台地。

初めて訪れた場所だ。

 

でも、私はこの道を何度も何度も往復したような気がする。

未知ではなく、抹消されてしまった既知の目覚めではないだろうか。

 

初めて訪れた場所や時間が、懐かしくてたまらない気持ちになり、自分の中の奥深くとコンタクトが取れるような事がある。

そこには、最も重要な真実が包まれているような気がするのだ。

ひょっとして私は、あべこべな場所に生きているのではないか。

心の小さな隙間で、そんなことを思ってしまう。

 

 

極稀に飛来するこんな気持ちになる瞬間は、決して見過ごしてはならない。

堆積され続ける日常の狭間、それは、必ずどこかの景色を隠れみのに現れる。

 

もしも出会った未知のものが、まるで既知であるかのような強い確信を感じたならば、ためらわずにそこへ向かって歩き始める。

そんな軽やかさをずっと持ち続けていたい。

その時、例えどんなに年齢を重ねてしまっていたとしても。

 

 

 

 

 

2018.07.16

朝の静けさに

 

 

 

メモリアルなイベント写真展のために、カメラマンと朝陽の光を利用して作品撮影をすることになり登頂したことがあった。

山頂での朝陽と登り慣れていない私の速度を逆算し、登り始めたのは早朝5時だった。

とても寒い頃で、1メートル先も見えないほどの闇に包まれた山。

過去に登った人々の足で作られた、道というには心細いほどの道を登り始めた。

ヘッドライトと足元を照らす懐中電灯。

先を行く何度も登り慣れたカメラマンの後を登る。

 

人間の目は暗い場所でもしばらくすると慣れてくるものだ。

しかし、それはある程度周囲に明かりが残っている環境での話であり、月のない夜の山、大自然の中にあっては、そんな楽観的なものではなかった。

 

 

 

 

登りながら登頂という行為を生きることに照らし合わせ、感じ入ることがあった。

 

先が見えないとは、こんなに恐ろしく疲れるものなのか。

暗闇が恐ろしいのではなく、進むべき道がどこにあるか全く見えない。捉えられない。

これは、想像以上に神経が疲弊する。

 

我々は生きてゆく上で、先に生きた多くの年長者という道標を持っている。道標となる方に、直接教えを請うこともできる。

そして、希望や憧れ、モデルとなるもの目標を通して、イメージというものを持つことができる、それらは、暗闇を照らす明かりになる。

もしも、それらが一切なければ…

その中でたったひとりで歩まなければいけないのであれば…

自分が日頃いかに沢山の明かりに包まれて生きているか、明かりを頼りに生きているかを感じた。

 

懐中電灯を照らし、変則的にうねる冬の枯葉や朽ちた枝で埋もれた土の道を探りながら、ゆっくりと一歩一歩確実に。

道は真っ直ぐだろうと勝手に判断して、勢いよく踏み出した先が思わぬ誤算で傾斜になっていて転げおちかけたことが何度もあった。

気が緩んだ頃に、足元をすくわれる。

まさに人生教訓に満ちた登山だった。

 

三合目あたりで、ようやく空が白ばみ始めた時には、どれだけ楽に歩けたことか、速度も一気に上がった。

暗闇を知れば、明るさがあることがどんなに有難いことであるかを知る。

 

明けない夜はない。

 

どんなに天候が悪くとも、朝には光がもたらされる。

 

夏至の候、1日がとても長い。

いつもより少し早く起きて、今日という1日が始まる朝の神秘、輝きを眺めるのもなかなかに良いものです。

 

 

 

 

 

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