2018.07.16
朝の静けさに
メモリアルなイベント写真展のために、カメラマンと朝陽の光を利用して作品撮影をすることになり登頂したことがあった。
山頂での朝陽と登り慣れていない私の速度を逆算し、登り始めたのは早朝5時だった。
とても寒い頃で、1メートル先も見えないほどの闇に包まれた山。
過去に登った人々の足で作られた、道というには心細いほどの道を登り始めた。
ヘッドライトと足元を照らす懐中電灯。
先を行く何度も登り慣れたカメラマンの後を登る。
人間の目は暗い場所でもしばらくすると慣れてくるものだ。
しかし、それはある程度周囲に明かりが残っている環境での話であり、月のない夜の山、大自然の中にあっては、そんな楽観的なものではなかった。
登りながら登頂という行為を生きることに照らし合わせ、感じ入ることがあった。
先が見えないとは、こんなに恐ろしく疲れるものなのか。
暗闇が恐ろしいのではなく、進むべき道がどこにあるか全く見えない。捉えられない。
これは、想像以上に神経が疲弊する。
我々は生きてゆく上で、先に生きた多くの年長者という道標を持っている。道標となる方に、直接教えを請うこともできる。
そして、希望や憧れ、モデルとなるもの目標を通して、イメージというものを持つことができる、それらは、暗闇を照らす明かりになる。
もしも、それらが一切なければ…
その中でたったひとりで歩まなければいけないのであれば…
自分が日頃いかに沢山の明かりに包まれて生きているか、明かりを頼りに生きているかを感じた。
懐中電灯を照らし、変則的にうねる冬の枯葉や朽ちた枝で埋もれた土の道を探りながら、ゆっくりと一歩一歩確実に。
道は真っ直ぐだろうと勝手に判断して、勢いよく踏み出した先が思わぬ誤算で傾斜になっていて転げおちかけたことが何度もあった。
気が緩んだ頃に、足元をすくわれる。
まさに人生教訓に満ちた登山だった。
三合目あたりで、ようやく空が白ばみ始めた時には、どれだけ楽に歩けたことか、速度も一気に上がった。
暗闇を知れば、明るさがあることがどんなに有難いことであるかを知る。
明けない夜はない。
どんなに天候が悪くとも、朝には光がもたらされる。
夏至の候、1日がとても長い。
いつもより少し早く起きて、今日という1日が始まる朝の神秘、輝きを眺めるのもなかなかに良いものです。