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2018.09.22

夏の名残香る

 

 

 

雨上がりの午後。

海を訪れてみた。

 

 

 

 

 

賑やかだっただろう海水浴場を眺めていたら、撤収途中の海の家があった。

夏の名残。

日没の近い雨上がりの空が明るいグレーの背景となり、トタン屋根のくねくねしたシルエットが、新鮮に思えた。

 

撮影したかったのは、トタンからポタポタと落ちる雨の雫。

ふん、いまだ写真がへたくそだ。

 

 

若い時分には、賑やか真っ盛りな海にただ行くだけで楽しかったものだが、年齢のせいだろうか、少しピークを過ぎた頃に訪れるとかつては感じ得なかった静かな趣を感じるものだ。

 

ただのあまのじゃくか。

 

著名な映画監督が残した言葉があったような。

 

若い時には、どんなことでも大きく手を広げて受け入れてくれる海を好むものだが、年を重ねるごとに、山を好むようになるものだ。

山では、自ずと広げた手をゆっくりと閉じ、裡を見つめるためであろう。

 

生きる時間が変化すると、好みも変化する。

人は無常の生きもの。

変化する自分自身も、それはそれでよい。

 

 

我が家でも少しずつ夏の名残香る生活の品々を、仕舞い始めている。

 

仕事が終わると、秋を迎え入れる準備を愉しんでいる。

 

 

来週は9月最終週となります。

年内も個展あと2回となりました、来月13日より予定の佐賀展のご案内は次回致します!!

 

 

 

 

2018.09.16

プロフェッショナルに唸る

 

 

 

昨日をもちまして、無事に山口個展終了いたしました。

お時間とってお越し頂いた皆様、ならびにドログリーさんのスタッフの皆様、心より感謝申し上げます。

次回もまた、元気に笑顔でお会いできますように。

 

 

 

 

さて。

先日、イメージ写真の撮影をスタジオにて行いました。

 

 

 

 

一体、何をやっているんだ?

オペ?

かなり真剣な顔つきをカメラマンに撮られておりました。

 

細い花瓶の底にいいあんばいの角度になるようにさいばしを使ってリングセッティング中です。

 

で、撮影して頂いた写真がこちらです。

 

 

 

今回、初めて撮影をお願いしましたカメラマン。

私の作風や打ち合わせでの情報などを元に、言葉でうまく説明できない感性の部分を短時間で捉え、それを再現する。

実際にシャッターを切る回数もかなり少ない。

そうやって撮影されたものをその場でモニター通して拝見し、思わず唸った。

 

かっこいい!!!

放つ空気感に大満足。

 

さすがプロフェッショナルなお仕事です!

レベル高いプロの方とのお仕事は、ジャンルは違えどかなり刺激的です。

創作意欲へと直結したエナジーが充填されます。

 

撮影して頂いたのは、リング。

近く新作ブログでご紹介します。

そちらは、自分で撮影したフツーものとなりますので、あしからず。

 

そして、イカす写真を撮影して頂いたカメラマンのウエブサイトはこちらです。ぜひのぞいてみてくださいませ!

 

http://www.red-church.com

 

 

 

 

 

 

 

2018.09.02

山口県個展の案内はひとつ戻ってね!

 

 

 

今朝は、かすれかけた絵筆で描いたような薄く白い雲が、澄んだ青空に映えてとても綺麗だった。

 

 

 

 

 

秋の顔だ。

 

思わず両手いっぱい広げて深呼吸した。

 

深呼吸は大げさなくらいがちょうど良い。

体の隅々まで空気を呼び込み、ゆっくりと吐く。

何回か繰り返す。たったそれだけで、焦りや苛立ちが和らぎ、万事落ち着きよいことが起こりそうな気がしてくるから不思議だ。

多忙になると必ずと言ってよいほど呼吸が浅くなっている。

 

ピラティスからヨガにシフトして3年くらい経つだろうか。

やっと、体の声を聞くということが分かりかけてきた。

当初はリードをするインストラクターのその言葉の意味も、飾り文句のようにしか聞こえず、耳でストップ、ちっとも頭に入ってこなかったが、今では体から出てくる声や警告サインをキャッチできるようになり、加減することを覚えた。

 

自分の体に聞いてみる。

 

ヨガ始める前の頃ってどんな具合でした?

いや、もう、正直ギリギリでしたわ。

耳、使ってなかったでしょ!

あ、はい、ごめんなさい。

 

 

どんなことでも続けていれば、変化、進化、してゆくものだ。

クラスに行けない日は、自宅で毎日!

やればよいのだが、先生のリードがないと自宅では注意が散漫になりがち。

 

 

華やかにあれこれチャレンジするより、これなら続けられそうだというものをほんの少し、地味に続けることが自分には向いているようだと、確信する。

 

その実、あまり器用ではないという証である。

 

地味に続けて、時々、自分に聞く。

自分とのコミュニケーション。

秋深まってくると、そんな時間をじっくり持ちながら温かい飲み物を味わうのもよいものだ。

 

 

 

 

 

 

2018.08.20

文楽に親しむ

 

 

 

日本の古典芸能のひとつと言われる浄瑠璃。

遡ること室町の頃が発祥だといわれているらしい。

 

一方、文楽は、大阪の文楽座で始まった浄瑠璃人形劇を示し、厳密には別物であるという。

 

 

 

 

 

 

私にとっては未知の世界。

細かいことはさておき浄瑠璃でも文楽でもどちらでも、とにかく観劇するタイミングを見計らっていた。

ようやっと、先週末に九州唯一の観劇場博多座へ出向き、観劇して参りました。

 

此れ、めっぽう愉しい!!

 

映画やドラマ、脚本家で知られる三谷幸喜氏の三谷文楽。

6年ほど前から全国を周り、今回、福岡では初公演だったとか。

 

浄瑠璃といえば、近松門左衛門。

当時あまりにも大ヒットし、実際に心中ブームが起きてしまうほどだったという「曽根崎心中」。

内容はその曽根崎心中をベースにしたもうひとつのお話。といったところ。

 

ご存知の方には、ちょいと飛ばし読みして頂くことにして。

 

舞台はどんな感じかと申しますと、正面上部に三味線と太夫たちの座が設けてあり、幕やお話の内容によって、可動式のセットで右から三味線3人ほど、左から太夫ひとり、もしくはふたりが座ったまま現れまして中央でピタッととまり整列する。

陰翳礼讃な灯りのなか鳴り響く三味線の伴奏。

裃姿の男達の力強い三味線生演奏、渋い!渋すぎる!

太夫たちは、幕の長さによって交代しながらナレーションと台詞を独特の節をつけて話す、というより唄う。

泣くシーンでは声色だけでなく白いハンカチを出してすすり泣き、取っ組み合いのシーンでは、上半身を揺さぶりながらの芸達者な義太夫にも注目。

 

舞台の方はと言いますと、少し低めにセットされていて観客席からはちょうど人形が床に立っているように見える高さになるような衝立が施してあります。

一体の人形に対して3人の人形遣いが黒衣をつけて操る。

これは、3人の息がぴったり合わなければ、人形は不自然な動きになる。

当然だが、足音も必ずひとりだけが人形の動きに合わせてたてる。

思う以上にたやすいことではないのだろう。

 

浄瑠璃の人形は案外大きいと何かの本で知ってはいたが、百聞は一見にしかずだ。

想像以上に人形が大きかった。

 

黒衣を着た男性の人形遣いと変わらぬ背丈で、実際に人間が装うようにきちんと長襦袢に着物、帯をしめ、足袋も履かせ、髪を結い、髪かざりに至る小物、身分に合わせた着物の柄など、注目すべきところが盛りだくさんで、人形遣いの3人の姿はすぐに視界に入らなくなった。

 

三谷文楽は、太夫の詞も現代語版にしてあり、聞き取りやすく、分かりやすい、内容や小道具演出も現代ならではのものをちらりちらりと入れることで、時代のギャップを感じさせないような配慮があり、劇場内に笑いや人情に訴えかけるものであった。

入りやすく、馴染みやすい古典芸能、なるほど人気があるわけだ。

 

 

映画がない頃の大衆の娯楽。

娯楽を通して人は、其々に得るもの、留めたいものがあるものだ。

演目に現れる人の生き様や行いに潜む、心情、道徳心、教え。

人の生きる世がどんなに進化しようとも、昔も今も変わらないものたち。

そんなものが盛りこまれていた演目に満足して余韻と共に劇場を出ると、空はいつの間にか茜色に染まり、夏の夕暮れの風が身を包んだ。

その風の中で心がふんわりとほころんだ。

 

幾つになっても、初めての経験を通して見る新しい世界は、心に広いスペースが増えたようでわくわくする。

新しいノートを手に入れたような気持ちにも似ている。

 

次回は、もう少し知識を増やして大阪の国立文楽劇場に参りたいものだ。

 

 

画像は、床本。

本来ならば、太夫が見台に置いて語る台本のようなもので、1ページに五行くらいしかないものらしいのですが、三谷文楽は5幕構成でまともにやるとかなり長くなるらしく、まるでストーリー本兼床本といった分厚さでした。

 

 

「其礼成心中」

タイトルの意味がストーリーのキーワードとなっておりました。

 

機会がありましたら、気難しいことを考えずにお愉しみあれ!

 

 

 

 

2018.08.15

手技

 

 

 

私が所有している手作りの道具の中で、最も特別な存在のものがある。

 

種鋏だ。

 

 

 

 

 

ポルトガル船漂着による鉄砲伝来で知られる鹿児島県種子島。

砂鉄も多く取れるこの島の鍛冶職人たちは高い技術を持ちながらも、時代の流れと共に、作る物を刀から鉄砲へ、後には家庭で使う料理包丁、裁縫で使う鋏作りへと変化させてゆかざるを得なくなったという。

なかでもその鋏の見事な切れ味と美しいフォルムは、種鋏と呼ばれ多くの人々に親しまれたらしい。

 

私が手に入れたのは、8年ほど前。

今では手打ちで作り続ける職人は一軒だけとなり、後継がなく途絶える寸前であるというテレビ番組の特集を見た他県の青年が、弟子入りを願い出て受け入れられたという話を耳にした頃だった。

 

手に入れる前までは、同郷の伝統品が欲しい。

切れ味のよくない鋏はストレスがかさむ、旅のよい機会だ。

そんな軽い思いで取扱店を訪れた。

しかし、全行程がひとりの職人によるものである手打ち鋏を寸法別にズラッと並べられたのを見た瞬間、それぞれに紛れもなく宿るものを感じ心の奥が静まり返る思いがした。

 

これらはただの土産物ではない。

バッグを肩に引っ掛けたまま販売員の説明を聞くのは、不適切に思え

即座にバッグを床に置いた。

バッグを置いた途端、販売員は軽くうなづきより熱の入った説明をして下さった。

どの話も新しい知識となるとても興味深いものばかりだった。

 

包丁や鋏、刃物とは何を切るかによって使う刃の場所が違う。

薄いものを切るときには、鋏の先端を使い、分厚いものを切るときには鋏の刃の奥の方を使う。

改めて問われるならば知識としては知りつつも、いざ切るとなると無意識のうちに鋏の中央部分の刃でせかせかと切りがちだ。

 

種鋏は、かみ合わせると刃の中央部分はふんわりとカーブし少しだけ隙間があり、刃の先端は寸分の狂いもなくかみ合っている。

動きも吸い付くようななめらかさだ。

 

試し切りに渡されたティッシュペーパーを、10年使っているという種鋏を使用し、刃の先端でほんの少しだけ切ってみた。

著名な刃物メーカーの新品の鋏でも同じように試してみた。

切れ味だけではない。

音も違う。

切断面がスパッとまっすぐに切れている。

肉眼で確認できなくとも分かるのだ。

 

切り離されたものと切られたもののそれぞれの縁がピンと反れあがっている。破壊されずに切り離されている。

 

鋏で切るという行為は、実はこの感覚なのか。

静まり返った心の奥がどよめきたった。

 

 

私にとってこの素晴らしき手作りの道具を所有していることは、物言わぬ師匠を得ているに等しい。

 

 

恐れを感じるほどの見事さ。

 

手が生む特殊な技は、尊さと恐れが表裏一体である。

全く知識や情報を持たない人の心を、わし掴みにする迫力が備わっている。

 

それが、本物である証しなのだろう。

 

この鋏を見る度に私はずっしりと頭を垂れる。

 

 

 

 

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