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2021.08.24

星野道夫写真展

 

 

 

 

 

私は福岡市在住ではありますが、実は美術館や催し物を目指して北九州市へ出掛けることが多々ある。

個人的な好みという観点につきますが、私にとって交通費をかけてでも行きたいと思う催しは北九州に多いのである。

 

先日訪れてとても感激したのが、現在、北九州市立文学館で行われている星野道夫の写真展。

 

 

 

 

 

ひとことで感想を述べるならば、

したたか心を揺さぶられた。

 

期間中、もう一度足を運ぼうと思っている。

会場に足を踏み入れた最初のブースから、星野道夫の言葉を読み胸が詰まる思いになり、言葉少ない写真を見ては溢れ出しそうな思いになり、何度涙ぐんだことか。

星野道夫の写真展とうたっているが、文学館で行われているこの催し物。

 

なぜ、文学館なのか。

 

ご存知の方も多いかと思いますが、40代で亡くなられた星野道夫氏は、情報も今のようにたやすく手に入らない時代、大学生の時に一枚のアラスカの村の空撮写真に魅せられてどうしてもそこに行きたくてたまらなくなり、誰を尋ねれば分からず星野氏はその村の村長宛に手紙を書いた。

 

あなたの村に興味があります。仕事は何でもします。自分には頼る知り合いが誰もいないので、どなたかのうちに置いてもらえないでしょうか。

 

そんな内容の手紙を出し本人すら忘れかけていた半年後、村長から返事が届いた。

ミスターホシノ。返事が遅くなって申し訳ない。どうぞ来てください。うちに滞在してもよいですよ。

そして初めてアラスカの大地を踏んだことが、その後の星野氏の人生を大きく転換させた。

 

そうやって写真とたくさんの深い言葉を残し続けた。

 

星野氏にとって写真はもうひとつの言語だったのだ。

だから、文学館で企画され写真展とうたわれていたのか。

異常気象の連続、生態系の変化、今、このタイミングで企画されていることにもかなりのメッセージ力がある。

素晴らしい企画だなあ。

 

帰宅する高速バスの中で合点がいった。

 

 

トレッキングを始める少し前に読んだ星野道夫氏著「旅をする木」という本が、とても心に沁みてその後何冊か星野道夫氏の本は読んでいた。

実際にトレッキングを始めてからも改めて何度となく読み返す機会が増えていた。

本を読むたびに大いなる自然に対する思いを学問的見地ではなく、実体験を通して心を使った気取りない言葉で表現されていて、行ったこともない場所が近く感じるようだった。

文は人なり。

もしもお会いすることができたなら、最も、ご存命であったとしてもとてもそんなチャンスはなかったでしょうが、きっと私が文章を読んで勝手にイメージする人物像とほとんどズレのない方なのではないだろうか。

いつか本で読んだ話の写真も見てみたい。

 

そう思っていました。

 

願えば叶うものなのかもしれない。

まさか、北九州で写真展を見ることができたなんて。

 

やはり写真もどれも素晴らしかった。

技術を見せるような威圧的なものではなく、その写真の前に立つとすっとそこへ移動できるような不思議な優しさを含んでいるようだった。

写真と言葉、ふたつがあることでひとつの完成した表現になる。

 

表現の手段はひとつでなくてもよい。

 

 

いくつもある好きな写真の中で、この写真は特に好きでした。

 

 

 

まるで、熊がお祈りをしているようだ。

 

 

エスキモーの伝説には、人格化されたホッキョクグマの話が出てくる。

と、写真の横にキャプションが記されていた。

 

 

ポストカードになって販売されていたものを購入し額装することにした。

 

これは、自分が毎日目にする私的な場所に飾ろう。

寝室を考えてあちこちの壁を見回して実際にあててみたのだが、何故かそこにある空気感がしっくりこなかった。

そうだ、部屋という月並みな発想はやめてパウダールームはどうだろう。

浴室のドアを開けた時、まず一番に目に入るような高さに飾ることにした。

 

一日のいろんなものを流して浄化し、浴室を出た途端にまず目に入ってくる。

パウダールーム、浴室のドアの真正面。

この場所が、とっても気に入った。

 

今日一日を無事に過ごせたことに感謝を。

 

そのことを日々、忘れないでいられる時間を与えてくれる。

ホッキョクグマを現地でみることは叶わないが、このクマが実在してそれを星野道夫氏のカメラを媒体として印刷物化された、それを自分が毎日見る。

そのことは、世界の全てが繋がっている。

ちょっぴり神秘的な気持ちになる。

 

悠久の時を旅する

星野道夫写真展

北九州市立文学館

9月20日まで

 

近年、最もおすすめする企画展のひとつと言い切れます。

私という目線につきますことをお断りしておきますが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2021.08.18

ざわつきをリセット

 

 

 

 

 

どれだけの雨が降るのだろうか。

被災された方々におきましては、慎みましてお見舞い申し上げます。

 

まだ、しばらくは青空は望めそうにない九州。

山も程遠い日々で、身体も頭の中もなまりそうだということで、先日、一瞬にも近いほどの曇り空を狙い仕事を早めに終わらせて、北九州の河内ダムサイクリングロードへ行った。

河内ダムは、美しい石積みのダムである。

趣のある赤い橋も緑に映えて美しい。

 

 

 

 

 

 

ここは、3年ほど前に夏に福智山にトレッキングした折に、立派なサイクリングロードがあると知り、桜の頃はさぞ美しいだろうと思われるコースで春にはぜひ。と思っておりましたのに昨年から行動が取りにくくなった次第。

 

 

 

 

 

 

友人の車に自転車を乗せてdoor  to doorで、エクササイズ。

全身が雨に流されそうな気分でしたが、空は青空ではなかったがすっきりとした風が吹いて深呼吸しながらペダルを漕ぐと、頭の中に酸素が回り始めた気分になった。

 

曇り空を映したダムの水面は、幻想的な空気が流れていた。

自転車を止めてこの景色を見ていたら、心のざわつきがすうーっと静まった。

 

 

 

 

 

北九州は工業地帯であることもあり工業用水確保目的もあるのか、ダムがとても充実していて、そのダムを生かした住民のための憩いのスペースとしても整備されている。

 

ジョギングやウオーキングを楽しむ人々、自転車デビューした子どもと一緒にサイクリングを楽しむ家族、大学の駅伝チームの練習、目的はそれぞれ。

 

山や自転車を始めるまでは、気づかなかったこと。知らなかったことがこの数年でたくさん見えてきた。

目線が変わると、街の見え方も変わる。

趣味を持つということは、そんな視野の広がりも楽しみのひとつでもあり、思考に広がりがもたらされる気がする。

 

健全な肉体がなければ、健全な精神は得られない。

創造と制作においてのベストなコンディションをキープするために、エクササイズは積極的に心がけるようにしている。

 

じっとしていると、あまり発展的で明るい思考にはなりにくい。

光る画面は、むやみに見ないことだ。

画面の光を浴びるのではなく、こんな時はなるべく無償の恵み、太陽の光や体の周りを抜ける風を全身で浴びよう。

早朝や日没近くのベランダや庭でも良いのだ。

 

ダムを2周走り、公園のベンチでポットのお湯でコーヒーを淹れて休憩したら、自転車を積んでサクッと帰宅した。

3時間程で心をリセット。

私にとっては、サイクリングは短時間でのリセット手段である。

始めたのは2年ほど前。

まさかこんな時期にこんな風に役立つとは思っても見なかった。

 

再び、自粛期間へと突入しそうなニュースが流れている。

やむを得ないとはいえ、やはりストレスは積もるというのが本音である。

 

 

 

 

 

 

 

2021.08.11

少しだけ早起きのすすめ

 

 

 

春に始めたベランダガーデンのグリーンたちがすこぶる勢いがよく、来春に向けて花を咲かすべく剪定をやっと済ませた。

 

猛暑の日中だが、早朝は気温が低く朝の静かな風がとっても心地よい。

若い頃は朝が苦手だったが、いつの頃からかすっかり朝型人間になった。

朝は、本当に時間の流れが違うのだ。

夏のこの時期は空が白ばむ時間が早いので1日を早くスタートさせられる。

 

 

 

 

まずは窓を開け放ち空気の入れ替え。

ご飯が炊けるまでの間にベランダの植物たちに水をやり終えると、朝食を済ませてもう一度ベランダへ。

食後の緑茶はベランダが日課になった。

この時間は、自分にとっては最高に贅沢な時間である。

最もお気に入りのカフェの時間。とも言える。

 

そよそよと吹く早朝に風に揺れるグリーンたちを眺めながら、新聞代わりのタブレットニュースを読む。

たった15分ほどだが、1日をスタート気持ちよくさせられる気持ちの準備が整う時間である。

朝には邪魔されるものが何もない。

忙しい方にこそおすすめな貴重な時間確保です。

 

 

剪定したブルーブッシュとティーツリー、花器に入れるとベランダで眺める雰囲気とはまた違った空気が漂い、気持ちが安らぎます。

何より、ベランダで育てている植物を部屋に取り込めることや、育てたちょっとしたハーブを料理に使えることも、小さな喜びである。

 

 

不思議なもので植物と住む場所、植物と育てる人の相性があるよ。

同じ人間でも同じ植物でも、たとえ条件が同じマンションであっても引っ越した途端すくすく育つこともあるし、その逆もある。

 

花屋のオーナーが話してくれた。

植物も生きているから、気を持っているのだろう。

 

長生きしてくださいね。

 

呪文のようにして植物相手に話しかけるのであった。

 

 

 

 

2021.07.27

一日一生

 

 

 

 

 

 

予定していた制作スケジュールを急に変更せざるを得なくなったことがあり、1日ぽっかりと空いてしまった。

 

しばらく行っていないトレッキング。

新調した靴慣らしを兼ねて低山でも登るかな。

 

調べていたら、井原山のオオキツネノカミソリの花がほぼ満開を迎えているという。

 

変わった名前の花ですが、植物分類学者の牧野富太郎氏によるとヒガンバナ属の6枚花びらのオレンジシャーベット色した花。

狐のような色した花で、葉っぱは先に出て終わってしまい、後に花が咲くのでまっすぐ伸びた茎の先端にいきなり花だけという姿。

花びらはカミソリみたいな細い形をしている。

まるで狐に化かされたようだ。

そんな諸説よりこんな奇妙な名前になったとか。

 

 

 

 

 

 

 

いつもよりかなり早い登山口到着。

もう既に帰宅する車もある。

入山した途端に何輪かお出迎え。

 

そして山の中腹まで来ると、もう登れど登れど右に左に、上に下にとかなりの群生です。

行き交う人々はみんな笑顔。

今日ばかりはと何度も立ち止まり、皆さんなかなか進めない。

あまりの群生に造形ではない美に、沈黙せざるを得ない。

そんな体験でした。

 

 

 

 

 

 

オオキツネノカミソリは、梅雨明けてから7月末から8月始めにかけて咲く夏の花で、ここ井原山は西日本一の群生エリアという。

この短いタイミングを見計らって沢山の登山客が多いらしい。

 

偶然の仕事スケジュールの変更、天気、そして花の満開の時期。

全てが不思議に揃って前日に急遽決めたトレッキングだったが、こんなに全てが揃うタイミングは意外にも少ないのである。

暑いだろうと覚悟した山は、信じられないくらい涼しくて、四六時中ひんやりした風が吹いていて、数日ここに住みたい!そう思うほどの心地よさだった。

見上げると優しい緑の屋根の葉っぱたち。

ひぐらしが優しく鳴き、遠くには沢の流れる音。

時折美声を放つ姿なき野鳥。

足元にはオレンジ色した海のように群生する花々、

ああ、なんて贅沢なトレッキングなんだろう。

2度と同じ環境、気持ちは体験できない。

 

人間が居なくても植物は困らず、こんなに咲き乱れる

けれども、人間は早起きしてこうやってきつい思いをしながら登ってでも植物を見たいとやってくる。

地球環境、エシカル、サステナブル、なんて言葉が次々に出てきていますが、原点に戻る時間を持てば自ずとこの世のすべてに物に感謝と敬意の気持ちは生まれるように思う。

人間優位ではないということを、気付かされる。

 

 

 

 

群生エリアが終わると、山は一気に急登コースへ。

山頂では、360度ぐるりの景観で、雲仙、壱岐対馬、阿蘇、英彦山、そして我が家の近くの小さな鴻巣山、福岡市街一望、素晴らしい眺めだった。

 

実は、今回のトレッキングは、直前まで決行するか悩んだ。

前日の午後に個人的にとても親しくしている友人の身内の方の訃報が入って

かなりショックで気持ちここにあらずといった状態だった。

当然の如く登るのをやめるつもりで準備もいっさいやめた。

同行者にキャンセルの電話を入れようかとスマホの連絡先画面を出した時、ふと思い直した。

故人は故郷の山をとても愛し、幼い頃から庭のように知り尽くし歩き回っていて、いつかその山を案内してもらおう。

そんな話をしたことがあった。

 

そうだ。

故郷の山ではないが、私が山で明日見るものを届けよう。

 

そんな思いになった。

不謹慎な決断だったかもしれない。

でも、入山してから何度も故人を思いながら登った。

頂上の岩の上に立ち、ぐるりと遠くの山々を眺めていたら

故人にとって永遠という時間が始まるということではないだろうか。

そんな考えをしている自分に気付いた。

 

 

 

同行者には下山後もいっさい触れなかったのだが、井原山は私の中でメモリアルな山となった。

 

 

全てにありがとう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2021.07.21

オイルランプの魅力

 

 

 

 

 

 

今、住んでいる街の少し路地に入った住宅街にヨーロッパのものをメインに集めたアンティークショップを見つけた。

ステンドグラスや真鍮のドアの取手やカットグラス、重厚感のある家具などが窓越しに見えたが、その日は営業が終わっていた。

そんな話を知人にしていたら、偶然にもよく行くお店だということで、先日一緒に訪れてみた。

 

 

 

 

1970年代のアメリカのガラスランプメーカー、グラスディメンションズという会社のオイルランプを見つけた。

 

ガラスのスープ皿を張り合わせたような円盤型のランプ。

 

下のガラスの内側がミラー張りになっていて、中央に穴が開いていて芯はガラス管の中に収まっておりオイルを吸い上げるので、芯が曲がり炎が歪むことはないように計算されている。

 

ガラスの中に溜まったとろっとしたオイルの表情もガラス越しに見ると美しい。

今見ても形もモダンであり、炎の高さも食事や入浴、ナイトテーブル、あらゆるシーンでも邪魔をしない理想的な位置にある。

しかもこのガラス本体は手作りという。

円盤の大きさも大小あり、しかも内側がミラー張りでない上下ガラスのものあった。

しばしウキウキと悩ませて貰った。

 

 

 

 

 

デッドストック商品ということで、梱包されている説明書や箱に至るまで当時のままの様子が伺える状態でお渡ししてくださった。

 

お店の方々も全く気取りもなく、このランプと出会った先の展示の様子やお店を始めるにあたってのいきさつなどいろんなお話を聞かせてくださった。

 

以前住んでいた街には、日本の古道具屋があり定期的に覗くのが楽しみだった。

今住む街でまた新しく立ち寄れるお店ができたことがちょっと嬉しくなった。

 

現在は照明もLEDの普及でUSB充電スタイルのコードレスで、好きな場所へ持ち運べるモダンなものがいっぱい出回っている。

これらはいわゆるオイルランプの未来形である。

 

しかし、電圧の違う国へ行くとその器具はそのままでは使えない。

将来USBの標準仕様が変化し、更にアダプターが必要になる時がくるかもしれない。

結局、昔ながらのものは、国境や時間を越えられる自由さと新しさが常にある。

そんな風に思った。

 

 

貫いて一周するくらいのこだわり。

やっぱりそういうものに惹かれるんだよね。

 

 

 

 

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