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2018.05.27

皐月の日向ぼっこに思ふ

 

 

 

昨日をもちまして無事に北九州個展が終了致しました。

 

お時間とってお越しいただいた皆様に心より感謝申し上げます。

新作や今後の個展情報など、ブログを通じて配信しておりますので、気が向きましたらご覧いただけたらと思います。

そして、今回お会いできた方、出来なかった方、またお会いできる日を楽しみに致しております。

 

 

 

 

 

さて、日中は暑さを感じる季節になって参りました。

ベランダのハーブたちもすくすく元気。

ザルの上で日向ぼっこさせて、乾燥ハーブに転身中。

 

この季節になると思い出すのが、数年前ベルリンを旅した時の5月の風と13年前ストックホルムを旅した時の5月の新緑。

 

 

ふとした時に思い出されるのが、旅のワンシーン。

旅は贅沢だという考えもあるかも知れないが、私の中では自分の心と時間への投資だと思っている。

 

個人の経験を通して心に積み上がるものたちは、個人に帰属するものであり、たとえ巨万の富を持つ人であっても、他人の心に積み上がったものを買うことはできない。

時間をお金で買えないことと等しい。

 

毎年、時間が無限に与えられているわけではないのだと、ひしひしと感じるのも生まれ月であるこの5月の心模様だ。

 

 

ベランダでハーブと共にコーヒー片手に日向ぼっこ。

皐月の日向ぼっこにもの思ふ。

 

さあ、来週から6月突入だ!

早すぎるのぉ…

 

 

 

2018.05.15

北九州個展のお知らせはふたつ戻ってね!

 

 

3年ほど前、不思議な出会いがあった。

音楽が好きで、楽器はバイオリンが好きで、布やブレード、刺繍、縫い物が好きで、お花やグリーンをお部屋に飾る事が好きで、アロマの香りも好き。旅行も好き。器も好き。お料理にも興味がある。

お仕事は、その頃私が始めたばかりのヨガ講師をしているという。

 

とにかく、興味ごとや関心ごとが妙にリンクする。

ひとつふたつならまだしも、あれもこれもそれもなのだ。

 

 

 

 

 

最初に会った時、以前から知っていたような懐かしい感覚だった。

ふわふわしたマシュマロみたいな可愛らしい女性。

年の頃は私より随分若いのだが、見た目よりはるかにしっかりしている。なるほど3児の母であるという。

 

とにかく興味を示すものが、自分と似てるのだ。

不思議な気持ちだった。

あまりにも似てるので、話を合わせてくれてるのかな、そんな思いもよぎったり。

 

しかし、2度目に会った後のメールのやり取りの中でその理由が判明。

 

なんと、誕生日が同じだった。

 

血液型や星座による性格分類や相性などには全く詳しくないし、無頓着な私だが、今回ばかりはその関係性をストンと受け入れられた。

 

最初に感じたあの不思議さも、説明がつくように思えた。

 

そんな彼女から先週末に迎えたお誕生日に、優しい春色のアレンジメントが届いた。まるで、彼女がにこにこ笑っているようだった。

私とお揃いのアレンジメントですよ。

と、メールの中にあった。

 

365日ある1年の中で、同じ日にお互いにお祝いを言いあえるなんて素敵だなあと思った。

同じ贈り物をひとつは相手のために。もうひとつは自分のために。

こんな贈り物の仕方もできるのか。

同じ誕生日の人と交流があると、わくわく度2倍だ。

 

大人になるといい歳して誕生日を祝う年でもないという言葉をよく耳にするが、私は年齢に関係なくおめでたいと思うし、言葉のひとつかけてもらえるだけでも、人はハッピーな気分になるものではないだろうか。

少なくとも、私は大変に嬉しい。

 

 

この仕事を始めてから、びっくりするようなご縁や劇的なご縁に遭遇することが増えた。

誕生日が同じだなんて、そう驚くことではないかもしれないが、私にとっては初めて遭遇する出会いであり、とても新鮮だった。

少し離れた所に住んでいる妹。

おかげさまで楽しいご縁が続いている。

 

人のご縁は、面白い。

映画や小説、エンターテイメントも霞むくらいの興味深さがある。

何より自分自身が主役の舞台で、時間を共有し、色んな話や体験を共にしながら、縁を育て深めてゆくこと自体が楽しいのである。

時間や気持ち、思い、言葉もいっぱいかけなければならない。

その一方で、空白や沈黙の時間も必要であるように思う。

 

袖触れ合うも他生の縁。

明日、また、素晴らしいご縁に遭遇するかもしれない。

そんな風に思える今日がずっと続きますように。

 

 

 

週末から始まる北九州個展。

素晴らしいご縁がたくさん始まりますように。

 

 

 

2018.05.09

北九州個展のお知らせはひとつ戻ってね!!

 

 

応量器。

見事に重なった入れ子の容器は、とても美しい。

 

 

 

 

 

 

初めて見た時には、幾つも重なったそれらがどんなシーンで使うものなのか、なんにも知らなかった。

祝いの席で使うものかと思い、見事に入れ子になった姿はただただ美しく、自分の生活とは無縁のものと決め込んでいた。

 

もともと禅僧が使う個人用の器であり、飯碗、汁椀、酒や湯のみ、汁椀の蓋になったり、小さなものは匙などとして用途をなすサイズで、この5つか6つの器は全て入れ子式に作られていて、仕舞う時はひとつになる。

一番大きなものは、托鉢用としても使用するものであり、直接口をつけず卓上に置いたまま使うものとされているらしい。

 

サンスクリット語ではパートラと呼ばれ、日本では宗派によって若干呼び名が違うらしいが、主に鉄鉢、てっぱつ、てっぱち等と呼ばれているようだ。

英語ではブッダボウルと呼ばれているとか。

 

本来は鉄製であるらしいが、黒い塗りは鉄とみなすということで、塗りのものは、漆作家の個展などでよく見かける。

漆黒、朱色、溜色と、楚々と並ぶ姿はまさに美術品のようである。

 

雨風凌ぐ場所で、

起きて半畳、寝て一畳。

食事は応量器。

 

人間が生きて行く上で必要なものは、本来、そう多くはない。

入院などを経験すると特に感じるものだ。

日頃目に見えないものたちが突如姿を現し、己がそれらを当然の如く無償で得ていたことに愕然とし、この世の恵みに慌てて手を合わせる。

 

時が経ち元気になり日常が積み重なってゆくと、この世の恵みたちは存在を薄くし、様々な欲が前へ前と浮き表れ、あっという間に取り囲まれてしまう。

 

溜色の鉄鉢を見ながら思う。

 

人間が生きてゆく上で、寝食労働だけではやはり味気ない。

暮らしには、彩りというものがあるとより豊かになる。

彩りは、楽しみや励み、活力になり、福を呼ぶ。

彩りを欲と呼ぶならば、欲はあって然るべき。むしろ必要不可欠。

それが、自他共に感じる豊かで幸福な人生へと導く。

しかし、彩りも度が過ぎれば、下品を通り越して貧相になり兼ねない。

清貧という言葉も示している。

 

 

 

人は1日の終わりに、明日も健康に目が覚めると、殆ど疑うことなどせずに眠りにつく。

 

それが、何よりの幸福である。

 

 

 

 

2018.04.28

食卓の美

 

 

数年前のこと。

古道具屋で、3寸にも満たない可愛らしいサイズ感の塗りのお椀を、びっくりするくらいの破格で手に入れていた。

輪島の昭和50年くらいのものだろうとお店の方は話していたが、既に縁が少し剥げかけていたこともあり、安価な設定にされていたのだろう。

 

 

 

 

 

子供茶碗だったのだろうか。

 

今は、なかなか見ない珍しいサイズだ。

現代の輪島はなかなか手に入れられないが、これだったらいずれ漆職人に塗り直しをして貰えば遜色ないものになるだろう、ちょっと珍しい木地を安く手に入れたそんなつもりでしばらく愛用していた。

 

そろそろ塗り直しをどなたかにお願いしたいなあと思っていた折、陶芸家の友人に誘われて、後輩であるという関西出身の漆作家さんの個展に行った。

 

驚いたことにこの作家さんの作品を、すでに私は持っていた。

しかも、作家さんにお会いして気付いたのだが、ずいぶん前に兵庫県での大きなイベントに一緒に参加していたことも発覚し、人と人の不思議なご縁と世の中の狭さにほんとにびっくりした。

 

そこで、作家さんご本人とは何の縁もないのだが、このお椀の塗り直しをお願いできるかと尋ねた所、快く引き受けて下さったという、そんないきさつを経た昨日。

欠けや割れ、下地の補修、中塗り、上塗りと、すぐに剥げないようにととても丁寧な仕事をして頂けて、完全なる新品になって手元に戻ってきた。

 

こんなに変身するものなのかと、驚き、そして、お願いしてよかったとしみじみ嬉しかった。

色味も落ち着いた感じになって、益々愛着が湧いてきた。

 

塗り物は、扱いが難しいと敬遠されウレタンで代用されがちだが、しっかり拭きあげるだけで、何も特別、面倒なことはない。

使えば使うほど艶を増してくる。

どこか銀と共通しているように思う。

何よりも、日常に使いながら改めて思うのだが、料理がとても美しく見える。

家庭料理の献立でも、塗り物に盛って出すと決まってお客様は喜ばれる。

 

日本人は、食事の時に箸を使う。

この事は、両手でナイフとフォークを使い、テーブルの上のお皿は置いたままで食すことが基本の西洋とでは、食卓に並ぶ食器たちに大きな影響を与える。

これは、何を食べるかというよりも最も重要な違いではないだろうか。

 

一方、お箸の国日本では、器を手に持ち食事をするシーンが多々ある。

その時に、器も持ちやすく、軽く、たとえ料理が熱くても器が必要以上に熱くなることもなく頂ける漆器は実に優秀だ。

心なしか箸使いも美しく見えるもの。

 

日本の食卓に洋食器が果たしてどの位必要なのだろうか。

私自身、もちろん洋食も作るのだが、我が家には洋食器が殆どない。

 

書物、陰翳礼讃の中にも漆の椀の吸い物の色と灯りの関係が生む、日本独特の美について記されているが、実にうなづける話であったのを記憶している。

 

夜の柔らかな照明の下で見る漆は、中塗りの色がふんわりと浮かび上がり、なんとも奥行きのある美を見せる。

昼間には、見せない表情だ。

 

磁器には、見出せない奥行きではないだろうか。

 

このように欠けや塗り直しをしながら代々使うことができる器。

改めて先人たちの知恵と技術に敬意を感じる。

我々が日々の生活で使い実感することで、継承されてゆく伝統技術のひとつだと思う。

 

気に入ったものを長く使うことは、とても気分がよいものです。

 

生活の目線、ひいては生き方の目線へと広がり、与えられるものは計り知れない。

 

手仕事のものたち。

 

やっぱり、私は大好きなのです。

 

 

お世話になった漆作家 林 源太さんのhp

http://genta-urushi.com

 

 

 

2018.04.23

ことばのノート

 

 

いろんなシーンで出会う心が澄むような言葉。

にこにこほかほかしてくるような言葉。

面だけではない深い深い真理の言葉。

心が走り出すような言葉。

 

 

 

出会ったらその場ですぐに書き留めておき、ある程度溜まったところでこのノートに書き溜めている。

 

こんな時つくづく思う。

字が綺麗ならばなあ。

 

時折、読み返すのだが、清書のつもりでこのノートに書き溜めているのに、改めて清書し直したくなる。

 

これは、直筆でなければなんとなくやる意味がない気がして、自分が読み返すためのものだしと、その点には追求しないことにしている。

 

なぜ、こんな事をやっているのか。

思えば、小学生の頃から、綺麗な言葉や知らない言葉に出会うと辞書をひき、無意識にメモ帳に書き溜めるクセがあった。

目的がなかったから、クセとしか言いようがない。

あれから40年も経つというのに、やってることが同じ、違いといえばメモ帳が分厚いノートになり、鉛筆がペンになった位だ。

幼い時分、辞書で調べた言葉の同じページや近くのページをついでに拾い読みするのも、結構面白かった。

新しくまたメモ帳に書き留めるような言葉を発見して、まるで自分しか知らないちょっとした宝物を拾ったような気がして、ひとりほくそ笑んだりしてた。

 

きっとこのような無駄な行為が、辞書の良さなのだと、今更ながら辞書を引く地味な行為が生む知識の取り入れ方を鑑みる。

これは、インターネット以上の感度ではないだろうか。

残念なことに今は辞書を引く回数も減り、それどころか満足に漢字も思い出せない。

こうやって、キーボード上で変換し、選択に頼ってばかりだ。

憐れなことよ。

そのうち選択すら出来なくなるのだろう。

無惨。

 

小学生の自分より、成り下がっている。

 

大人になると人様から注意や指摘されることも減る。

失言、失態、無礼。

きっと自分の周りの方々が、寛大に許してくださっているのだろう。

ノートを読み返しながら反省し、青ざめることしばしば。

そして、迷いや不安、焦燥などが日々積もり、ふっともたげる負の感情からなるべく早くニュートラルに切り替えられるように。

ちょっと落ち込んでいる誰かに少しでも元気になって欲しい時に。

このノートをぱらぱらめくったりする。

 

言葉を使うこと、かけることは1円もかからないけれども、よくも悪くも金銭に換算できない価値に化けてしまうことがある。

時に深い慈愛、時に鋭利、取り消すことが難しく、時に根を残し怨恨にまで突き進む。

 

これほど扱いの難しいものはない。

 

マザー・テレサは、この言葉を残して最期を迎えたという。

 

この世は言葉が多すぎます。

 

 

心しなければ。

と、思う今日この頃である。

 

 

 

 

 

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