2018.04.23
ことばのノート
いろんなシーンで出会う心が澄むような言葉。
にこにこほかほかしてくるような言葉。
面だけではない深い深い真理の言葉。
心が走り出すような言葉。
出会ったらその場ですぐに書き留めておき、ある程度溜まったところでこのノートに書き溜めている。
こんな時つくづく思う。
字が綺麗ならばなあ。
時折、読み返すのだが、清書のつもりでこのノートに書き溜めているのに、改めて清書し直したくなる。
これは、直筆でなければなんとなくやる意味がない気がして、自分が読み返すためのものだしと、その点には追求しないことにしている。
なぜ、こんな事をやっているのか。
思えば、小学生の頃から、綺麗な言葉や知らない言葉に出会うと辞書をひき、無意識にメモ帳に書き溜めるクセがあった。
目的がなかったから、クセとしか言いようがない。
あれから40年も経つというのに、やってることが同じ、違いといえばメモ帳が分厚いノートになり、鉛筆がペンになった位だ。
幼い時分、辞書で調べた言葉の同じページや近くのページをついでに拾い読みするのも、結構面白かった。
新しくまたメモ帳に書き留めるような言葉を発見して、まるで自分しか知らないちょっとした宝物を拾ったような気がして、ひとりほくそ笑んだりしてた。
きっとこのような無駄な行為が、辞書の良さなのだと、今更ながら辞書を引く地味な行為が生む知識の取り入れ方を鑑みる。
これは、インターネット以上の感度ではないだろうか。
残念なことに今は辞書を引く回数も減り、それどころか満足に漢字も思い出せない。
こうやって、キーボード上で変換し、選択に頼ってばかりだ。
憐れなことよ。
そのうち選択すら出来なくなるのだろう。
無惨。
小学生の自分より、成り下がっている。
大人になると人様から注意や指摘されることも減る。
失言、失態、無礼。
きっと自分の周りの方々が、寛大に許してくださっているのだろう。
ノートを読み返しながら反省し、青ざめることしばしば。
そして、迷いや不安、焦燥などが日々積もり、ふっともたげる負の感情からなるべく早くニュートラルに切り替えられるように。
ちょっと落ち込んでいる誰かに少しでも元気になって欲しい時に。
このノートをぱらぱらめくったりする。
言葉を使うこと、かけることは1円もかからないけれども、よくも悪くも金銭に換算できない価値に化けてしまうことがある。
時に深い慈愛、時に鋭利、取り消すことが難しく、時に根を残し怨恨にまで突き進む。
これほど扱いの難しいものはない。
マザー・テレサは、この言葉を残して最期を迎えたという。
この世は言葉が多すぎます。
心しなければ。
と、思う今日この頃である。