2018.05.09
北九州個展のお知らせはひとつ戻ってね!!
応量器。
見事に重なった入れ子の容器は、とても美しい。
初めて見た時には、幾つも重なったそれらがどんなシーンで使うものなのか、なんにも知らなかった。
祝いの席で使うものかと思い、見事に入れ子になった姿はただただ美しく、自分の生活とは無縁のものと決め込んでいた。
もともと禅僧が使う個人用の器であり、飯碗、汁椀、酒や湯のみ、汁椀の蓋になったり、小さなものは匙などとして用途をなすサイズで、この5つか6つの器は全て入れ子式に作られていて、仕舞う時はひとつになる。
一番大きなものは、托鉢用としても使用するものであり、直接口をつけず卓上に置いたまま使うものとされているらしい。
サンスクリット語ではパートラと呼ばれ、日本では宗派によって若干呼び名が違うらしいが、主に鉄鉢、てっぱつ、てっぱち等と呼ばれているようだ。
英語ではブッダボウルと呼ばれているとか。
本来は鉄製であるらしいが、黒い塗りは鉄とみなすということで、塗りのものは、漆作家の個展などでよく見かける。
漆黒、朱色、溜色と、楚々と並ぶ姿はまさに美術品のようである。
雨風凌ぐ場所で、
起きて半畳、寝て一畳。
食事は応量器。
人間が生きて行く上で必要なものは、本来、そう多くはない。
入院などを経験すると特に感じるものだ。
日頃目に見えないものたちが突如姿を現し、己がそれらを当然の如く無償で得ていたことに愕然とし、この世の恵みに慌てて手を合わせる。
時が経ち元気になり日常が積み重なってゆくと、この世の恵みたちは存在を薄くし、様々な欲が前へ前と浮き表れ、あっという間に取り囲まれてしまう。
溜色の鉄鉢を見ながら思う。
人間が生きてゆく上で、寝食労働だけではやはり味気ない。
暮らしには、彩りというものがあるとより豊かになる。
彩りは、楽しみや励み、活力になり、福を呼ぶ。
彩りを欲と呼ぶならば、欲はあって然るべき。むしろ必要不可欠。
それが、自他共に感じる豊かで幸福な人生へと導く。
しかし、彩りも度が過ぎれば、下品を通り越して貧相になり兼ねない。
清貧という言葉も示している。
人は1日の終わりに、明日も健康に目が覚めると、殆ど疑うことなどせずに眠りにつく。
それが、何よりの幸福である。