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2023.08.10

雲の上で想う

 

 

 

山に登り始めてよく見るようになった空模様がある。

その空には、特別な名前がついているということを後にカメラの本で知った。

 

日の出前と日の入り前の数十分の間だけ見ることができる幻想的な色に染まる空。

マジックアワーと呼ばれているそうだ。

 

 

先日、愛知個展に向かう朝、見たマジックアワーの空。

真夏の暑さから解放される日の出寸前の早朝、スマホに収めながら思った。

ああ、山、行きたいなあ。

山が恋しい気持ちにしばし蓋をして空港へ。

 

搭乗してしばらくすると、眼下に広がる黄金色に包まれた瀬戸内海をみていると、旅の気分を思い出した。

若い頃、いろんな国へ向かう途中よく空から陸を眺め、シートポケットの航空会社オリジナルの雑誌巻末の地図と照らし合わせるのが大好きだった。

あの川のそばには街がある、今頃朝ごはんを作っているのだろうか。

長い飛行時間の間に何度も雑誌をめくる時間も旅なのだ。

時空を超えた空想の旅。

もう、今ではシートポケットの雑誌は存在しない。

Wi-fiが使えるのだから。

味気ない旅になったものだ。

 

 

機長による機内アナウンスが始まった。

四国、紀伊半島に分厚い雨雲が発生しているので、ルート変更して山陰より名古屋へ向かうので若干到着が遅れますとのこと。

 

 

しばらくすると右手にかなりの分厚い雨雲が森のようになっているのが見えた。

 

 

 

山を登り始める前は、その日が雲ひとつない空模様であって欲しいと願っていた。

しかし、ある時、山頂で気づいた。

思い違いをしていた。

 

空が美しいと感じるのは、青いからではない。

雲の存在があるからだ。

雲の定まらない形、それらが景色と相まって情緒を産むものなのだ。

景色の中に雲は存在していた方が美しさは格別である。

 

花が美しいのも、葉の存在があるから。

雨の日があるから、晴れの日が気分が良い。

秋に実りあるのも夏があるから。

とはいえ、この暑さはもう災害に等しい。

エコバックどころの認識では間に合わないレベルだ。

 

我々は便利になった時代を逆行させることはもう無理であろう。

行き着くところまでいくのが人間のサガというもの。

ある科学者が語っていたそうです。

持続化可能はあり得ない。

ただ循環するのみである。

 

と。

万物の循環。

その環の中にいる人間という生き物。

人間の都合だけで生きているのではないことを忘れてはいけない。

 

雲の上で想った。

 

 

 

 

 

 

 

 

2023.07.31

愛知個展のご案内はひとつ戻ってね!

 

 

 

若い頃は、日本茶はあまり飲まなかった。

正確には美味しいと思えなかった。

 

 

 

以前もブログの中で触れましたが、日本茶が本当に美味しいと感じたのはお世話になっているギャラリーのオーナーさんが、個展中の隙間な時間に淹れてくださったいっぱいのお茶でした。

甘くてとろっとしてそれでいて後口が爽やか。

ああ、もういっぱい飲みたいな、そう思わせるお茶でした。

石田三成が茶坊主をしていた頃、秀吉に出したお茶の逸話を思い出した。

 

とっても美味しいですね、どこのお茶ですか。

と銘柄を尋ねた私にオーナーさんは、

ごめんね。お隣のお茶屋さんのものでランクはそんなに高いお茶じゃないのよ。

私は、質問をとても恥ずかしく思った。

先方が答えにくい質問をしたことへの申し訳なさも多少はあったのだが、どこのブランドが美味しいとか希少なものは味が違うとか、そんな情報集めみたいな自分のものさしが恥ずかしかったのだ。

 

お茶は銘柄よりも淹れ方で味がこんなにも違うのだ。

それが日本茶なのだ。

やっと開目した瞬間だった。

 

サラリーマン時代は、とても忙しい会社だったということもあり、コーヒーマシンのコーヒーをそれぞれが好きなタイミングで飲むという習慣で、お茶汲みを女性がするという社風ではなかった。

今思う。

美味しいお茶の一杯が淹れられずして、どのくらいの仕事ができるものだろうか。

 

ものつくりは、手を動かしながら気持ちを込めることがとても大事であるように思います。

きっと一杯のお茶を淹れることも同じであろう。

 

昭和の職場の当たり前には、やはり人として大事な教えがあったのかも知れない。

そんな風に思うことも既に化石化した考え方であろうと認知しつつも、同時に否めない真実でもあるとも言い切れる。

 

お茶、とっても美味しいです。

 

そんなひとことが言える場にたくさん出会い、そしてそんなひとことが頂けるようになりたいものです。

 

 

2023.07.09

手芸に救われるいつかのために

 

 

 

降ったり止んだりの変則的な天気に気分が引きずられ気味。

週末も警報が出ている。

気分転換に…

そうだ。

しばらくぶりに縫い物をしよう。

 

 

3年前に緊急事態宣言が福岡は全国でも早くに出ると決まった時、以前から興味のあった刺繍を始めようと手芸屋に行った。

始めると糸の色の組み合わせだけでも楽しくて、目や肩の疲労を忘れて夢中になった。

のちに今の住まいに引っ越したり、生活の時間配分も変化したこともありなかなか気持ちに余裕が出ずに向き合えてなかった。

 

 

 

私はミシンが苦手である。

きちっと真っ直ぐに丈夫に縫えるミシン作業は仕上がりも美しいのですが、

ミシンを広げる場所がないという現実的な理由もあり、気が向いたらいつでもすぐに始められる手縫いが好み。

でも一番の理由は、手縫いが持つ独特のふわっとした風合いが大好きなのです。

洋服やインテリア雑貨でも最後の仕上げのステッチが手縫いだと、それだけでグラッときてしまいます。

お気付きの方が多いかもしれないですが、フォンテスキーのアクセサリー納品袋は手縫いです。

あれは、活動を始めてからずっとこだわっている個人的な好み故のこと。

 

 

そんなわけで、我が家では刺繍や刺子、裁縫と用途別に箱やかごに分けてしまってあるので、刺繍用のかごカバーを刺子で作りました。

 

 

若い頃に読んだ本の中で印象に残った手芸にまつわる話がある。

最愛のご主人を亡くし、自身ももうあまり視力も思わしくなくなり、動作もきびきびと動けなくなったドイツのおばあちゃんが、何か自分にできることを考えた挙句、ベッドカバーを縫うことを家族に宣言し、とりかかった。

風邪をひいたり、体調が思わしくなくなったりして、遅々として進まない針の進め方に、孫は椅子のカバーになってもいいじゃないかと何度も提案したが、何年もかかってコツコツと縫い続けてついに完成させた。

完成したベッドカバーのお披露目を兼ねたお祝いには、家族や親戚中が駆けつけてパーティーをした。

 

そんな話だった。

いい話だなあ、こんな風なおばあさんになりたいな。

読み終えてそう思った。

 

年齢を重ねても手を動かし何かを生み出せることがあるということは、苦しみや辛さを置き換えたり遠ざけたりできるものではないだろうか。

 

いつの時代も女性にとって手芸ができることは、いつか自分自身の助けになる時がくる。

そんなふうに思うのです。

そして、その時、そんな風な暮らし方をしていたいと思うのです。

 

 

 

 

 

 

2023.06.30

来た道、ゆく道

 

 

 

来た道、ゆく道。

 

器好きが高じてギャラリーを始めたというギャラリーのオーナーがプライベートな話しを聞かせてくださったことがあった。

 

ある時から器が重く感じ始めてね、だんだん塗りのものが食卓に多く並ぶようになってきたのよ。

 

 

この話を耳にしたのは、10年以上前のこと。

食器が重く感じるとは非常に疲れていて気力までもが落ちていているごく稀な時しか経験がなかったので、他人ごとのように聞いたものだった。

 

古くから日本の食卓で使われてきた漆器。

黒い蓋付きの漆器に注がれたゆらめくすまし汁や漆黒を背景に浮かび上がる艶のある羊羹。

これらを行燈の灯りで戴くときの美しさ。

さらにこれらを口にした時の味覚。

この美は、日本ならではのものである。

 

不確かかもしれないが、谷崎潤一郎の陰翳礼讃の中でそのような内容で讃美されていた灯りと漆のくだりは、ビジュアルとして鮮烈に私の中に記憶されていたことを思い起こした。

 

当時話してくださったオーナーの年齢に自分が近づいてきて思う。

 

 

ハレのときにだけ使うもののように思っていた漆器。

ちょうど話を聞いた頃に、日常で使う漆器を提案している越前塗りの塗師の作品に出会った。どの作品も気取りがなくそれでいて品がある。

少しずつアイテムを増やしながら、それまでの固定観念が払拭されて自由な使い方が楽しめるようになった。

使い始めて気づいたことがある。

温かい食事を盛っても過剰に器が熱くなることもなく、食後に洗うときもするするとスポンジ通りもよく、水切れも良く苦にならない。

食器棚にしまうときもさっと重ねられる。

修復しながら長く使うことができる。

何より、使う度に少しずつ艶が生まれて微妙に色味が変化してゆくのがなんともよいのです。

時間をかけて馴染むようにして育ってゆく感覚が、少しずつうちとけあってゆく仲間のようで、若い頃には理解できなかった良さを味わえるようになった。

 

気がつけば両手で持たなければならない大胆な柄の大皿の出番が減ってしまっている。

使うたびにテンションが上がる器たちだった。

ああ、ほんとだ。

重たく感じる。

これが出番が減っている理由である。

 

少しずつ揃えた日常使いも兼ねた漆器たちだが、ハレの日も使えそうなアイテムは意外にも少なかったのだが、佇まいがとても気に入って馬上盃が加わった。

今は盃以外の用途の出番の方が圧倒的に多い。

当時、ぼんやりと聞いていた食器の重さの話は、現実になっていた。

 

未来の自分は常に何かを感じる今の自分が作っているのかもしれない。

 

流れる月日は同じ。

 

誰もが

来た道。

ゆく道。

 

されど感じる心は、千差万別。

意のままに、愉しみ歩む道。

 

そんな道を歩みたいものです。

 

 

2023.06.23

涼度加減

 

 

 

アトリエから帰宅すると、蒸し暑さが満タンになった部屋の窓を開放し吹き渡る風で気の流れをリセット。

 

一刻も早くエアコーコンディションのリモコンに手を伸ばしたくなるが、開け放った窓のそばの風鈴の音が風を知らせてくれる。

耳で知る音で涼感。

 

 

 

 

植物も気持ちに涼を送り込んでくれる。

アトリエに咲いている少し色づき始めたブルーベリーとベランダでぐんぐんのびているレモンバーム。

暑い季節になるとよくやるのだが、いつもは床置きの大きな花器をどんとテーブルの上に乗せます。

今回は花器に合わせて低めに活けましたが、背の高い花器にたわわにテーブルに垂れ下がるように活けるのも、まるで木陰でお茶や食事をしているような気がしてなかなかよいのです。少し爽やかな香りのするものがさっぱりした気持ちになります。

鼻腔の奥に届く香りで涼感。

 

 

 

 

エアーコンディションの風でかすかに揺れるドウダンツツジと波打つようなトルコ桔梗。

目で感じる風が涼感。

 

五感総動員で。

いろんなものの力を借りて。

深呼吸を忘れないで。

 

これからの夏本番に備えます。

 

 

 

 

 

 

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