2023.06.30
来た道、ゆく道
来た道、ゆく道。
器好きが高じてギャラリーを始めたというギャラリーのオーナーがプライベートな話しを聞かせてくださったことがあった。
ある時から器が重く感じ始めてね、だんだん塗りのものが食卓に多く並ぶようになってきたのよ。
この話を耳にしたのは、10年以上前のこと。
食器が重く感じるとは非常に疲れていて気力までもが落ちていているごく稀な時しか経験がなかったので、他人ごとのように聞いたものだった。
古くから日本の食卓で使われてきた漆器。
黒い蓋付きの漆器に注がれたゆらめくすまし汁や漆黒を背景に浮かび上がる艶のある羊羹。
これらを行燈の灯りで戴くときの美しさ。
さらにこれらを口にした時の味覚。
この美は、日本ならではのものである。
不確かかもしれないが、谷崎潤一郎の陰翳礼讃の中でそのような内容で讃美されていた灯りと漆のくだりは、ビジュアルとして鮮烈に私の中に記憶されていたことを思い起こした。
当時話してくださったオーナーの年齢に自分が近づいてきて思う。
ハレのときにだけ使うもののように思っていた漆器。
ちょうど話を聞いた頃に、日常で使う漆器を提案している越前塗りの塗師の作品に出会った。どの作品も気取りがなくそれでいて品がある。
少しずつアイテムを増やしながら、それまでの固定観念が払拭されて自由な使い方が楽しめるようになった。
使い始めて気づいたことがある。
温かい食事を盛っても過剰に器が熱くなることもなく、食後に洗うときもするするとスポンジ通りもよく、水切れも良く苦にならない。
食器棚にしまうときもさっと重ねられる。
修復しながら長く使うことができる。
何より、使う度に少しずつ艶が生まれて微妙に色味が変化してゆくのがなんともよいのです。
時間をかけて馴染むようにして育ってゆく感覚が、少しずつうちとけあってゆく仲間のようで、若い頃には理解できなかった良さを味わえるようになった。
気がつけば両手で持たなければならない大胆な柄の大皿の出番が減ってしまっている。
使うたびにテンションが上がる器たちだった。
ああ、ほんとだ。
重たく感じる。
これが出番が減っている理由である。
少しずつ揃えた日常使いも兼ねた漆器たちだが、ハレの日も使えそうなアイテムは意外にも少なかったのだが、佇まいがとても気に入って馬上盃が加わった。
今は盃以外の用途の出番の方が圧倒的に多い。
当時、ぼんやりと聞いていた食器の重さの話は、現実になっていた。
未来の自分は常に何かを感じる今の自分が作っているのかもしれない。
流れる月日は同じ。
誰もが
来た道。
ゆく道。
されど感じる心は、千差万別。
意のままに、愉しみ歩む道。
そんな道を歩みたいものです。