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2022 April

2022.04.28

今日という夕どきの空

 

 

 

 

随分若い頃に見た映画でタイトルは忘れてしまったのだが、あれは確か香港映画だったように思う。

 

主人公のカメラマンが漸く世間に認められて活躍し始めた頃、最愛の人がある日突然、交通事故でこの世を去る。

いつものように其々に仕事に向かうため交わした朝の挨拶が最期となる。

あまりにも残酷な現実をまるで消し去るかのように、過剰なほどに仕事を請け負いカメラマンとしての知名度は益々上がってゆく。

 

そんな生活の中、ふっと甦る再び会うことのできない最愛の人の笑顔が脳裏に現れて、たまらないほどの寂しさに押しつぶされそうになる。

日増しにその頻度が増えて、仕事のバランスを欠くほどになり、主人公は寂しさを乗り越えるために、無性に思い起こされる時は空の写真を撮影するようになる。

撮影した空の写真のフィルムを詰めた缶が、溢れそうに溜まった数年後、最愛の人の名前をタイトルにその空の写真の個展を開催するシーンがエンディングだったように思う。

 

ストーリー自体は、大きなクライマックスもない淡々とした感覚だったが、空を見ていると誰かをふと思い出すことがある。

その心理というものは、言語や文化を越えてどんな国の人間も同じなのだなあと感じたものだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

もうひとつ気づいたことがあった。

その映画の中に出てくる空の写真は、ほとんどが雲のある写真だったのだ。

そうか。

絵になる空というものは、雲があった方が圧倒的にサマになる。

もちろん、心情的にはピーカンの空の写真は不釣り合いな演出ではあるという理由もあったかもしれない。

ストーリーは別な話としても、雲ひとつない青い空がイチオシなイメージで得をしたような気分になるものだが、空をドラマティックにするのは、実は雲という存在なのだ。

真っ赤な太陽が地平線に溶けるように沈む姿よりも、太陽の姿は見えないが

確実に落ちてゆき、変化する光のスペクタクルとの即興がまたとないライブショウとなり、人の心を沈静させてくれる。

 

思い出したくないこと。

忘れたいこと。

それらがあるから、今が輝く。

 

最近、夕どきの空、見ましたか…

 

 

 

 

2022.04.21

ブームという渦中の側を横切る

 

 

 

 

巷では大型連休なるものが近づいている。

 

サラリーマン時分にはどんな過ごし方をしていたのか、その間、自分自身にも数々の変化が生まれたこともあり、記憶を辿るのも容易ではなくなってきた。

 

 

 

 

数年前に始めたトレッキング。

最近では空前のキャンプブームも重なり、登山口近辺に設営されているキャンプ場は昨年あたりから無料駐車場が有料化になっている。

我が街福岡も、閉鎖された遊園地や広い敷地の公園などがこぞってキャンプ場やグランピング施設へとシフト運営のニュースを耳にする。

 

休日には、設営された色とりどりのテントが驚くほどにひしめき合っている。

つい3年前には目にしなかったことなので、改めてブームの渦中であるという現実を実感するほどだ。

 

少し地味めの山となると登山道を進む人は、そう多くはない。

 

キャンプ場の喧騒を過ぎて山に入ると、心がすうっと静まるのを感じた。

その感覚は街の中心へと出かけ用事を済ませ、自宅の最寄りのバス停を降りた途端に感じるものと至極似ていると気づき、これでは日常生活と大差ないのではないかと不思議な感覚になった。

 

トレッキングは、登山口からスタートするのではなく、前日の準備から始まる。

地図アプリをダウンロードし、ルートと地形、自分レベルでの所要時間を計算。

気温や風速、災害などによる通行止め登山道がないか調べ、休憩ポイントや景色のポイントをチェックし、行動食や水分、お弁当の準備、適切な体温調整のレイヤリングに合わせたウエアの準備。

 

山での過ごし方から全てを逆算した準備をする。

 

登山口は基本的にある程度の高度にあるので、登頂する山が見え始めると住宅は減り景色はがらっと変化してゆく。

車が離合できるかどうか際どい蛇行路を延々と進みながら少しずつ上がる高度を、時おり開ける視界の先に見える遠くの街並みで実感するのである。

登山口の駐車場に着くと先着の車のまわりで、登山装備の人々が入山への準備に余念ない姿を確認する。

どこからやってこられたのだろう、縦走コースで途中テン泊予定なのだろうか。

そうやって静かに挨拶を交わし、其々が山へと入ってゆく。

 

前日からスタートしているトレッキングの静かな本番スタート。

早朝暗いうちから自宅を離れ、徐々に景色が一変し山へと近づいてゆくこの登山口までの道のりと連動した心の静まってゆく時間、心の中から言葉が減ってゆく時間が、私にとってのトレッキングにはとても大切にしたい部分なのです。

 

キャリアの浅い私ごときが語るのも憚れるのだが、おそらくトレッキング愛好家の大半の方々も、登山口手前からこのフェードアウトしてゆく静の時間に味わいを感じているだろうと思う。

 

登山口に着くとこぼれ出している音楽や溢れている人とテント、車。

喧騒化しているキャンプ場に心が混乱したほどだった。

 

 

なんと表現してよいのだろうか。

個人的に、はみ出している感覚がどうも苦手である。

他人より少し過敏なところがあるのかもしれない。

 

店舗の外、公共の道路に、はみ出す音楽や商品や広告旗。

気分のままに必要以上の爆音轟かせて走り去るバイクや車。

誰かが話している会話にまで、はみ出してくる別な誰かの私ありきな会話。

誰かの意思ある行動を、阻止したり、方向転換させようとする別な誰かの執拗なほどのはみ出した思考による発言。

 

領域を侵す。

これは、人であれ場所であれ、あまり心地よいものではない。

 

 

新渡戸稲造が、外交の一環として解りづらい日本人の気質を「武士道」として書物にし、世界中の人々に言語化して伝えた歴史的人物であることは周知のこと。

 

その書物の中に出てきた日本人が持ち合わせているとされていた言葉が思い起こされた。

 

わきまえる。

 

わきまえることは、人が生きてゆく中でつい忘れがちなことである。

キャンプ場の喧騒、ブーム渦中の側を横切りながら自省した次第であった。

 

 

 

 

 

 

2022.04.11

心の目が合う瞬間

 

 

 

先週は心地よい青空が広がる日が多かった。

 

週末、友人でもある抽象画家 NAKA SHINICHI氏の個展に行った。

今回は、ギャラリー併設のカフェのタグスタでの個展。

 

 

 

 

 

 

 

新作のwhitelines:2022 シリーズ。

画家と出会ったのは、私がこの仕事を始めた頃。

かれこれ20年くらい前だろうか。

友人の誘いで初めて個展に行った後、とても惹かれるものがありほかの作品も知りたくて改めて帰宅後画家のホームページを観た。

やはり、いいな。いつか必ず!

こっそり決意して、それからほぼ毎回個展には、足を運んだ。

作品との出会いを求めてどのくらい経った頃だっただろうか。

10年はゆうに過ぎた数年前のこと。

佐賀での私自身の個展があり、最終日を終えた夕刻、ちょうど同じ佐賀市の別なギャラリーで個展中だった画家の個展会場にぎりぎり駆け込んだ。

 

あ!

まさに作品と目が合った。

 

それまでずっと黒基調の寒色ばかりに目がいっていたのだが、心に飛び込んできたのは、少し大きめのスクエアシリーズの赤の作品だった。

一度視線を外し、会場全部の作品をぐるっと眺めてみた。

 

一点だけだ。

唯一赤を使った作品。

過去にもなかった色。

大きさも理想的だった。

 

そうだ。これだな。

探していたのは、実は赤だったよ。

 

意志、勇気、決意、覚悟、怒り、愛情、嫉妬、競争、生命、慈愛、冷静

人が持ち合わせているあらゆる心のうちを内包して違和感のない色。

ドットの中にいろんな線と形が浮かび上がってくる。

自宅での居場所もすぐにイメージできた。

 

待っていてよかった。

そう思った。

 

後で画家に聞いたのだが、赤は過去にも何度もチャレンジしたがようやく作品になった。と。

 

その後も個展にはほぼ毎回足を運んでいるのだが、心に留まるものがありコレクションしたくなる気持ちをコントロールしながらの帰路なのです。

 

アートとの出会いは、そんなふうに時間をかけてよいのではないかと思う。

 

 

展示は5月5日まで、タグスタ店内ギャラリースペースにて。

 

 

作品と心の目が合う。

そんな瞬間が、人生にあることはとっても素敵だと思うのです。

 

 

 

 

 

 

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