2018.07.18
2018.07.09
逆説代名詞として使われるコペルニクス的転回。
このリングは駆け出しの頃に作ったものだが、恐れ多くもコペルニクスというタイトルである。
しばらくぶりに作ってみた。
この垂れ下がったバーは、邪魔にならないのか。
個展の折にはよく尋ねられたものだ。
上下には180度動くが、左右には控えめな振り子程度の動きなので思う程邪魔ではないと説明しご試着を勧める。
試着された方は、決まって手を上に上げたり下げたり左右に振ったり、ちょっと歩き回ったりして、にわかに笑顔になりながら、バーの先端の地球(のつもり)の玉が動くのを面白そうに眺めて遊ぶ。
どんなものでもそうだが、試す事で意外な気付きがある。
それは、良いことばかりではない。
良かれと思って心を配ったつもりが、返って仇になったり、予測していなかった所が、気になったり。
リングに関しての試着はしつこい程に行っている。
手は身体の中でもとても役割が多いからであり、何よりも人の手がとても好きだから。
無意識でこんこんと走るようにして一気に作り上げたものは、不思議なものでうまくまとまっている。
2度目に作る時に、理屈が分かることがある。
自分自身が過去にやったことだというのに、ああ、そうか。
そう思うことがある。
何かを形にするには、一万回やればどんな人でもどんなものでも形になるという。
右も左もわからない駆け出しの頃、様々な個性と志を持った作家さんたちや作品たちと出会うたびに迷っていた。
自分らしさを一体どう反映させていけば良いのだろうか。
出会えば出会うほどに揺れていた。
突如、自分に課した。
迷っていてもしょうがない。
とりあえず千個のアクセサリーを作った頃には、きっと何かが見えてくるだろう。
そして、 文字どうり百戦錬磨、百回の作品展をめざそう。
カウントこそはしなかったが、そう決めてからはとにかく作った。
朝から明け方まで。
作った翌日には気に入らなかったり、不具合に気付いたりして、壊してまた別なものを作ることもよくやった。
ある時、雑誌の取材でライターさんに尋ねられた。
今まで幾つくらい作られましたか。
ああ、そうだ。
私は、千個のアクセサリーを目標にしたのだった。
千個は超えていた。
百回の作品展も超えていた。
いろんな道の経営者達は必ず語る。
余計なことを頭で考えずに、とにかく続けることだ。
それ以外に道はない。
身につけることで心躍るようなアクセサリーを、素敵な女性たちにもっと出会うために。
駆け出しの頃に作ったものに再び向き合うことで、初心の思いをアップグレードの時間として充てることができた。
もっと素敵になってもよい女性たちといろんな時間が共有できますように。
2018.07.04
2018.06.27
2018.06.21
夕霧草。
線香花火のように咲く深い紫色した夕霧草。
日本の花の名は誰がいつ頃つけたものだろうか、とても情緒のある名が多く、花の名は和名の方が気になるたちだ。
漢字になったものを目にすると、まるでその花の姿そのものに見えてくるものや、音で聞くより生息環境などを理解できるもの、その花の性格までもを表しているように思えたりする。
個々の花、その生き方や物語を感じさせる。
まるで人のようでもある。
食卓の一輪挿しに飾る夕霧草は、音のない小さな花火のようだ。
花の向こうに茜色の空が見えるような安らぎが漂う。
空間を邪魔をしないそのバランスの取れた存在は、洋花にある誰が見ても感じる魅力とはまた異なる。
この花には、夕暮れ時に誰もが感じるあの名残惜しさや寂寥感のようなものが少しだけ混じっている。
そこの部分がどこか安寧する故かもしれない。
人もそうだ。
いつもいつも元気で前向きで笑っていられたらよいのだが、実際そんな方がいると時に重たく感じるものだ。
寂しさのようなものや不安を垣間見た瞬間、その人のことをより人間らしく近くに感じるもので、ふと寄り添ったような気持ちになる。
人が持ち合わせている孤の部分は、生身の人間であるという証しのように思う。
過剰に演じたり、偽る必要はないのではないだろうか。
内なる孤を抱きしめる。
そんな気配のするものを無意識のうちに選び、身の回りに置くようになってきた。
夕霧草。
宵の刻、今日もどこかの食卓で小さな音のない花火があがる。
夕霧草ペンダント。