2018.06.21
夕霧草。
線香花火のように咲く深い紫色した夕霧草。
日本の花の名は誰がいつ頃つけたものだろうか、とても情緒のある名が多く、花の名は和名の方が気になるたちだ。
漢字になったものを目にすると、まるでその花の姿そのものに見えてくるものや、音で聞くより生息環境などを理解できるもの、その花の性格までもを表しているように思えたりする。
個々の花、その生き方や物語を感じさせる。
まるで人のようでもある。
食卓の一輪挿しに飾る夕霧草は、音のない小さな花火のようだ。
花の向こうに茜色の空が見えるような安らぎが漂う。
空間を邪魔をしないそのバランスの取れた存在は、洋花にある誰が見ても感じる魅力とはまた異なる。
この花には、夕暮れ時に誰もが感じるあの名残惜しさや寂寥感のようなものが少しだけ混じっている。
そこの部分がどこか安寧する故かもしれない。
人もそうだ。
いつもいつも元気で前向きで笑っていられたらよいのだが、実際そんな方がいると時に重たく感じるものだ。
寂しさのようなものや不安を垣間見た瞬間、その人のことをより人間らしく近くに感じるもので、ふと寄り添ったような気持ちになる。
人が持ち合わせている孤の部分は、生身の人間であるという証しのように思う。
過剰に演じたり、偽る必要はないのではないだろうか。
内なる孤を抱きしめる。
そんな気配のするものを無意識のうちに選び、身の回りに置くようになってきた。
夕霧草。
宵の刻、今日もどこかの食卓で小さな音のない花火があがる。
夕霧草ペンダント。