2022.03.15
言語を越えて
一昨日を持ちまして無事に京都福知山展が終了致しました。
お運び頂きました皆様心より感謝申し上げます。
さて、先日個展の後、足を伸ばした際に滞在したホテルに憧れのスピーカー、ダリが備え付けられているというリスニングルームというものがある事が分かり事前に予約を入れておいた。
こんな時世になりほとんどコンサートにも行けていない。
一度、バイオリンのランチコンサートに行ったきりである。
予約を入れると完全に貸切であるということで、持ち込みのCDも聴くことができた。
集合住宅では殆ど不可能な音量で全身に響いてくるダリのスピーカーから聞こえて来る音。
しばらくぶりに音楽を堪能しているという状況に高揚した。
殆ど生演奏のような音質を全身で浴びた。
レコードもどれくらいぶりだろう。
ワンクール45分ということで、交響曲を通しで聴いてしまうと退室しなければいけない。
聞きたいものを楽章ごとにピックアップすることにして、まずは備え付けられているレコードやCDを物色。
これはぜひ聞かなければならない、と選曲したものはスメタナのモルダウ。
邦題では、我が祖国で有名なあの曲である。
録音の古いチェコ交響楽団のレコード版を聴いていたら、こみ上げてくるものがあり思わず涙ぐんでしまった。
祖国を思いながら、不安をかかえながら家を後にしなければならないウクライナの人々や、国を守るために小さな子供までもが、引き返して母国に戻るニュースが頭の中で駆け巡った。
音楽どころではない日々を過ごしている当地の人々に申し訳ない思いと、
聴きながら願いが充満し胸がいっぱいになった。
持ち込んで聞いたCDは、ショスタコヴィッチのバイオリン協奏曲第一番の第二楽章。
この曲は、本当に沁みました。
ここのところ我が家でも無意識のうちに聞いている曲は、プロコフィエフ、チャイコフスキー、ペルト、ラフマニノフ、オイストラフ、解雇を言い渡されたゲルギエフの指揮する名盤やバレエ音楽など。
遠くに住む無力な自分が、できること。
少しでも意識を傾けて、平穏な日の再来を切に思う。
幸せに対して人々は平等であるべきだ。
どうかどうかよりよい判断のうちに治ること願ってやまない。
言語を超えた音楽や芸術を通して、訪れたことのない国や人々の幸福を願うことができる。
何百年も前に作曲された音楽をまるで時間が遡りすぐ隣で演奏してくれているような錯覚に陥りながら、芸術の力というもの、意義というものを深く体感した45分だった。
何かを伝えるという手段は言葉だけではない。
世界中の愛に溢れた思いが想念となり、正しさと人々が幸せになる平等な権利の上に降り注ぎますように。