2022.03.19
素朴かつ普遍的、内在する美について
春になって参りますと、全身の力がふわっと抜けて文字どうり身も心も軽くなる思いがします。
しばらくぶりに近くの花屋で切花を買おうと出掛けたのだが、臨時休業になっていた。
花屋で出会う季節の花々とそれらに合わせる花瓶をどれにするかは、お洋服に合わせるアクセサリー使いや、部屋を飾るインテリアを選ぶかのような楽しさがある。
残念だが、そのまま帰宅して本日は花瓶の整理をすることにした。
以前、週末だけの小さなアクセサリーショップを運営していた名残で、我が家には卓上やお盆の上、窓辺の木枠部分にも置けそうな小さな小さな花瓶や香水の瓶などが集まってしまっている。
そんな中でもこの頃よく目につくのは、素朴なかたちのものである。
小さい頃、おばあちゃんちにあったよな。
そんなかたちには、主張し過ぎないシルエットが一輪の花と静かな駆け引きを行い、まさに香るかのようにその場に佇む。
そういうものに魅力を見出せるようになったことは、少しばかり成長したような気がして実のところ嬉しくもあるものです。
白い細首の花瓶は、萩焼のもの。
手前の木の柾目が美しい細首は、家具屋さんのオリジナルの欅の木のもの。
家具屋さんならではのなんとも贅沢な木の削り出しで、ひと目で気に入りました。
ひっそりと棚の下の方に残っていたのを見つけると、店主は、
あ!嬉しい!これは、随分前の商品で今はもうこういうものは作らないです。というより、作れないわね。
既に持っていた白の萩焼の細首が思い出され、難しい飾り方だが遠近つけて置き、花と枝をそれぞれに挿すと面白いだろうな。
まとめられるかな、やってみたいな。
そうやって出かけた花屋さんだったのだが、お休みとは。
素朴で普遍的なかたちには、全てを受け入れるおおらかさがある。
モノが溢れ出した時代、これでもかとばかりに奇抜な形や色、素材が溢れ出した。そして見向きもされなくなった素朴さは、野暮ったさと称され、ステージから外されてしまった。
外されたことにも気づかないほどに次々と斬新さが台頭し、占領した。
息苦しいほど追い立てられるかのような出現に、ふと、感じる。
なんだか疲れるな。
どっちが主役なんだろう。
花がどれもマッチしない。
花を挿してはいけない花瓶なのかな。
そもそも花が殆どよその国で育つ花ではないか。
この国に今咲いている花はどこで買えるのだろう。
普通の花はどこに行けば買えるのかな。
普通は、手に入らない時代になったのかな。
私の思う普通は、時代遅れなの?
年齢を重ねるということは、時代とのギャップが生まれるのではなく、あらゆるものが淘汰され、見え方に変化が生まれるということなのかもしれない。
そうやってたどり着くのがその人らしさであり、その時初めて個性という言葉を使えるのではないだろうか。
かたちを見るだけでは見えてこないものを、身につけることでその人に内在する魅力をもっと引き出す。
それでいて主張し過ぎない。
静かな発見と駆け引きをするような装身具を目指したい。
花を飾るという生活のひとこまより、改めて自分の生業について思うこの頃でございます。