2020.06.18
静けさの前後
気嵐。
という現象をご存知でしょうか。
北海道の方言という説もあるそうですが、「けあらし」と読み、気象用語としては蒸気霧と云うらしい。
私が初めて見た気嵐は、初日の出が目的の身を刺すような冷たさの早朝でした。
海面に現れる霧が湯気のようにゆったりとたゆたう様は、あまりに幻想的、且つ優美な動きで、打ち寄せる波の音が小さくかき消されるほどの静かな存在感があった。
この気嵐は、北海道や東北の寒い地方でさまざまな条件が重なった時に目にするらしいのですが、幸運なことに私は故郷の鹿児島で、今年、初日の出を拝む寸前に偶然見ることができた。
手袋を外してスマホで撮影する指先がすぐに冷え切ってしまい、なかなか指先を認識せず撮影がスムーズにいかなかったが、海面から太陽が顔を覗かせるぎりぎりまでこの幻想的な海面のショウを見れたことは、初日の出を見れたことに更なる特別感を加え今年1年の慶が約束されたような気分であった。
釣りが長年の趣味である父親にこの現象のことを尋ねたが、見たことがあるが名前については知らないということだった。
後に気嵐であると分かったのだが、ふいに龍が姿を現し、早朝の美しい海面を悠然と這うように動いているようにも見えるこの蒸気霧は、神秘的ですらあるというのに、なぜ嵐とついたのだろう。どうしても結びつかない。
日本人のルーツ縄文人たちが生きていた頃には、気象学も解明されてなく、地球や宇宙の概念がまだなかったので、時折やってくる気象現象が八百万の神の怒りだろうか、何かの前兆だろうかと随分と恐れられたらしい。
その恐れを鎮めるために、祈祷をあげたり崇めるための形を土器でたくさん作ったのではないか。
そのようなことを美術書で読んだ記憶がある。
今は、竜巻がおきたりひょうが降ったり、台風が列島を縦断しても必要以上に恐れる人はいない。ある程度の予測ができる。
もちろん、それによる被害を受けることに関しては警戒はするが、それらがどんなものかは専門家達が既に解明してくれて知識として知っていたり、既に経験したりしているので回避できる術がある。
初日の出と気嵐を見た睦月はとても気分が良かったが、翌月の後半には、経験したことのない
ことが我々を襲い生活様式に変化が出た。
解明されないものには、恐れがつきまとう。
恐れは人の心にとりつくと増幅をやめない。
今は、縄文時代ではない。
あまりに恐ることは、心を疲弊させてしまう。
落ち着きを取り戻そう。
そう、言い聞かせながらふと思う。
お正月に見た気嵐。
あれは、
嵐の前の静けさ。
だったのだろうか。
そうであるならば、あとは専門家達に委ねて、嵐の後の静けさを待つばかりである。