2017.01.11
工程の中に潜むものたち
彫金。
俗に我々の仕事をそう呼んでいる。
金属を彫るという、本来はもっと緻密で高度な技術作業を示していたと思う。しかし、便利で画期的な道具が増えた現代では、緩やかで広範な意味において金属を加工することをも含んでそう呼んでいることだろう。
月日だけはそれなりに積み重ねてきた今、思うことがある。
彫金工程で絶対的に必要となる技術はふたつに絞られるように思う。
ひとつは、のこ刀を操れること。
もうひとつは、ロウ付けができること。
逆に言えば、このふたつさえ出来れば、教わることなくしても作りたいものへの情熱さえあれば、数多くの制作訓練の中で他の技術は自ずと進化し、会得できてゆくものではないだろうか。
のこ刀を操る。
力加減と呼吸、そしてそこに気持ちをそっとバランスよく沿わせることがとても大切である。
三位一体のバランスを習得することが、操るへの到達地点。
力加減と呼吸は、のこ刀を沢山無駄にしながらコツをつかめるようになる、これは訓練の域。
しかし、そこに気持ちを沿わせる事は、恥ずかしながら未だにコントロールを誤ることがある。
つまり、力加減と呼吸バランスよりも気持ちが暴走すると、切断完了間近でのこ刀を折ってしまうのだ。
再び三位一体のバランスの舵取りやらなければならない。
その度に思い出す言葉がある。
過酷な砂漠を旅するキャラバン隊の格言。
人は、オアシスを見て死ぬ。
大袈裟だか、少し通じているように思う。
ロウ付けをこなす。
銀の融点は1000度弱。この温度を超えない範囲で接着させたいもの同士の温度が同じになった時に、銀よりも低い温度で溶ける銀ロウで接着を促す作業。これがいわゆるロウ付けである。
金属は熱をどんどん吸収する一方で、油断するとすぐに冷めてゆく。
火を常に与えながら、まんべんなく温度を上げてゆくと接着の準備がお互い整った頃、お互いが浮き上がるようにしてそれぞれ離れる。
そのあと、ベストなタイミングで銀ロウがするっとお互いを一緒に包み込むようにして回りこむと、少しの距離と空間保っていたお互いが、お互いを吸い込むようにしてすうっと接着する。
ぴったりと接着したその最後の瞬間、ロウが星のようにきらっと光を出すのです。
この光を見届けた時、私の中に澄み切った落ち着きが爽快な風のように駆け抜け、すぐに温かい安堵感がふわふわと充満してゆく。
そのささやかな光は、とても美しい。
ロウ付けは、人と人の関係にも似ているように思う。
のこ刀を操るコツは、人の生きゆく進む様のようであり、ロウ付けは人と人が深く関わる様のようである。
と、そのようなことを密やかに感じているのである。
おそらくどんな仕事の手慣れた工程の中にも、そんな密やかなものたちがふんだんに潜んでいることだろう。
長く続けてゆけば、シンプルなことが深く感じるようになってゆく。とは、よく耳にする言葉だ。
人にやるべき仕事が与えられていることは、なんと有難いことであろうか。