2021.06.08
丘の上に住む人々
朝陽の綺麗な静かな朝だった。
アトリエに向かうため駐輪場からゆっくりと自転車を押しながら、いつものように後輪の空転する小気味良いラチェット音と共に気分よく歩いていた。
前方に左半身を杖で支えるようにして立っている白髪の女性が、下り坂の道の前方をじっと見つめている姿が見えた。
何を見ているのだろう。
なんとなく邪魔をしてはいけない気がして、いつもより時間をかけて自転車を押し進めた。
白髪の女性の先には、スーツ姿に身を包む若い女性の後ろ姿があった。
坂道を下る後ろ姿をずっと熱心に見つめている。
若い女性は下り坂を下り切って角を左に曲がる時、まるで白髪の女性が立っているのが見えているかのようにして、ちらりと坂の上を見上げて小さく手を上げた。
それを見ると白髪の女性はゆっくりと右手を杖から離し、手を少しだけ上げて合図をした。
「いってらっしゃい。」
小さな声が聞こえた。
おはようございます。
あら、おはようございます。
私の気配にやっと気づいた白髪の女性は、優しさに溢れた笑顔で何か私に言いたそうな素振りを残したまま、ゆっくりと一軒家の門の前の方へと歩いて行った。
生きてきた気品のようなものとしての軌跡ともいえる皺と白髪。
その笑顔は柔らかい朝の陽射しに映えてより一層光るように見えた。
自分は将来、こんな笑顔を他人に見せるような人間になれるのだろうか。
いつものように自転車で坂道を駆け下りながら、つい先程見た坂の上から見送っている白髪の女性の後ろ姿と笑顔が、心の中にいつもと違う静けさを与えた。
曇り空の朝。
今朝は、若いお母さんが坂の上から坂道の下の方を見ている。
若いお母さんは、短く手を振った。
しばらくするとまた手を振った。
近づくと坂道をランドセルを背負った小さな女の子が、ジグザグに歩きながら何度も振り返ってお母さんが立っている方角を見上げているのが見えた。
その度にお母さんは、にこにこしながら手を振る。
下り切った坂道の角を左に曲がる時、女の子は最後にもう一度お母さんを見上げて大きく手を振って走り出した。
お母さんも力一杯手を振っていた。
おはようございます。
あ、おはようございます。
口元に我が子への慈愛に満ちた笑顔の余韻が輝く素敵なお母さんだった。
誰かに後ろから見守ってもらっているという安心感は、人を信じるという心を育てるのかもしれない。
人が本来持っている優しさという温かさが湧き出るような気がした。
坂道の上に住む人々。
それは一見不便な生活のようだが、平地に住む人々とは少し違った時間の流れがあるように思う。
坂の上から見送る人と見送られる人が心の中で会話したこと。
ひとり坂道を下りる時、そよ風と共に歩き、会話したこと。
暮らしゆく中でそんなことをいつしか思い出すそんな趣きが積み重なって生きてゆくことは、とても素敵なことであるような気がする。