2019.03.26
味わうセンサー
今年に入ってから、10日に一度くらいのペースで行っているトレッキング。
週末に行った約6時間かけての縦走コースの途中、あちこちでたくさんの春の息吹を発見した。
なんの生産性もないのに、なんでわざわざきつい思いしに行くのか?
と、よく聞かれる。
物事の感じ方は千差万別。
この質問者に対して私的な答えはただの言葉にしかならないと思い、私は決まってこう言うのだ。
その答え、確かめるために一緒に登ってみる?
尋ねた半分くらいの人は即答で断られるが、半分は行きたい!!と前向きな反応を示す。
で、実際に登った人達は、決まってまた行きたいと言う。
翌日にはトレッキングシューズを買いに行き、買ったシューズを写メして来た人もいる。
やる気満々になりウエアの大人買いをして、次はいつ行くのかと連絡して来た人もいる。
お。伝染してる、伝染してる。
思わずにやり。
若い頃は、どこか前のめりな野心や欲があり、あれもこれもやらなきゃと浮き足立ち、うわべだけの情報に踊らされ、ヒステリックで多呼吸な生き方をしていたと思う。
実際に、呼吸もかなり浅かったことだろう。
止まったら終わりだとばかりにその流れで進み続け、ある時、気力と体力のバランスが交差する年齢に差し掛かり、疲労が積もり気力低下の現象が現れる。
そのスパンはどんどん短くなり、頻度が多くなってくる。
嗚呼、このことを先輩達は言っていたのか。
まず、それらを受け入れることがスタートだった。
自分の身体と内面に投資をする時間を確保するようにした。
まず、ヨガで実際の浅い呼吸を正し、筋肉の緊張をほぐす、同時に食事のリズム、質、内容を見直す。
意識的に太陽の光を浴びる。
そんな見直しのあれこれの延長にトレッキングが加わった。
これまで休日というものを殆どとらずに仕事をしてきたのだが、晴れた日を狙って定期的にトレッキングを始めたことで、それが休日であるという新しいチャンネルになった。
仕事の効率と集中力があがり、メリハリがついてきた。
始めた頃は呼吸が乱れ全く周囲の景色を愉しむ余裕もなかったが、経験回数が増えてくるとその日のペースを探りながら安定した呼吸をコントロールしつつ、新しい発見ができるようになってくる。
先週、初めての縦走を体験しながら思い返してみた。
この5,6年の自分の生活改革の共通点は、競い合うステージからの離脱ではなかっただろうか。
元々、平和主義な方で物事への勝ち負け目線はなかったのだが、
こうでなければ、最低限ここまでクリアしていなければ、自分は人より劣っているのだから。
自分は出遅れているのだから。
そのような自分への叱咤があふれんばかりにあったように思う。
しかし、その対象となる人が実在したわけではない。
現実の自分が理想の自分に競争していたのだろう。
ひとり相撲。
ヨガの教えや、素材を生かした食の自由さ、等しく与えられている雄大な自然の営み、この5,6年で出会った世界は、どれももっと早く始めていればよかった、そう思うものばかりだった。
利便性と時短を声高に謳う昨今、我々は「味わう」という奥行きのある時間をどんどん捨ててしまっているように思える。
味わうことは、時間をかけることであり、手間をかけることだ。
それが内的豊かさの蓄積となり、外的に漂うゆとりというものに転身する。
かつては選択が少なかった余興も、いまでは多様複雑化している。
能動的に不便な環境に身を置かなければ、味わうセンサーはどんどん鈍化、劣化、欠損、しまいには消滅してしまい、人間と動物が逆転してゆくのではないかと不安になったりする。
味わうセンサー。
それは、五感がスムーズに起動することである。
この世にある限り、余るほどの感動を体験したい。
これは、私の変わらぬ欲望だ。
たとえどんな修行を積んでも、私はこの欲を捨てられないだろう。