2017.05.29
ある時から食事の大切さを痛感するようになった。
体の中に入るものが、自分の血を作り筋肉を作る全てであり、健全な体に健全な精神を宿すとこで、健やかに生きてゆく事ができる。
そして、その食事をする時間を楽しむための演出も含めて栄養となるのだと身をもって思うようになった。
若い時分から、食器は好きで少しずつ買い集めてきた。
旅先、古道具屋、知人の個展、友人が勤めるショップ。
とっておきのハレの日に使おうと思って奮発して買ったものもある。
そのとっておきの食器やグラスたちは、眺めては直し、磨いては戻し、はりきって使ったかと思うとすぐに洗って恭しく食器棚の最も安全そうな位置に直す。
或る日、こんな使い方をしている自分が、ふとバカバカしく思えてきた。
お気に入りを使うのにこんなにナーバスにならなきゃいけないなんて。
出番をもっと増やして日常から楽しむからこそ価値と対等になるのでは、これじゃまるで借り物と同じ。
所有しているとは言えない。
もしも、うっかり割ったりしてしまっても悔いのないくらい使えばいい。
そう思うようになった。
そうやって使い始めると、これまでの食事メニューとなんら変わりないのに、とても食事の時間がゆったりとして、体の中にまるで食器が持つ栄養価のようなものまで取り入れているような気持ちになり、ぐっと楽しくなった。
マットを変えてみよう。
お箸もそろそろ買い換えなきゃ。
照明を変えてみよう。
花器にしてもいいかも。
しまいには、食器棚の整理に至り、ほんとうに必要なものだけを残した食器棚に変身した。
食器棚だけじゃない、クローゼットは?
靴箱は?
部屋全体は?
ああ、こういうことなのか。
生活を大切にしなさいとは、その人を物語るものとなるからなのだ。
それまで意識をしていなかったが、他人は既に私のストーリーをキャッチして何かしらのセンサーを感じていたのかもしれない。
だとすると、実際に語る言葉以上に大切なのが日々の生活。
相手を知るためには、食事をしてみれば分かる。
人生の先輩たちがよく口にしていた。
今ではその真意がよく理解できる。
それだからこそ、企業でも接待、会食というものが重要視されているのだ。
食事をぞんざいに扱ってはいけない。
それは、きっと自分自身を粗末に扱っていることに等しいのではないだろうか。
贅沢な食事ではなくバランスのとれたものを、食す。
食事の時間としてきちんと座り、ゆったりと、ながら食事をしない。
食事の時間を削ってまでする仕事の質は、果たしてどのようなものなのだろう。
そう思うようになった。
食事のあとに、作った人に笑顔でごちそうさまと言える食事を心がけている。
たとえ自分ひとりのために作った食事であったとしても。
ごちそうさまペンダント。