2015.12.06
初めて香港を訪れた時は、まだイギリスの統治下にあった頃だったと思う。
印象的だったことが2つあった。
まだ日本でも殆ど見ることのなかったケータイ電話を使っている人を街中でよく見かけたということ。
当時のものは、今頃の若者が知ったら笑いのネタにし兼ねないほど大きな箱型のケータイ電話だった。
それでも、まだ日本ではポケベルが主流だったので、ケータイという言葉も定着していなくて移動電話と呼んでいた。
高級外車の中で使える車電話によく似ていたのを記憶している。そもそもこの例え自体が若者を更に混乱させるかもしれない。
もうひとつが、建築ラッシュが続いていたその頃の香港で、あちこちで建築現場を目にしたのだが、その足場がなんと竹でできていたのだ。
竹ですか!
中国には竹はいっぱいあるとはいえ、そのことが近代化されていないことのように無知ながら勝手に思っていた。
しかし、この頃知ったのだが、有名な建築家の本によると竹の足場はとても理にかなっているということだった。足場は命を預かるもの。そんな足場を竹で組めること自体が凄いことである。今では随分と減ってきたことも触れていた。
建築は、宗教が大きく影響しているという考え方があるらしい。
日本の建築は、仏教建築というよりは、伊勢神宮や桂離宮の茶室などが日本らしさの姿勢を表していて、軽く軽く、何の重みも感じられないような、あっさりとしたものが感じられる。
日本人の美の理想。
万葉のさやけさ。
中世の数寄。わび。物のあわれ。
江戸のいき。
さらさらと流れる水のような美しさがよろこばれれる。
しずかに、軽く、宇宙の今とここに静まりかえっている。
それが、日本人独特の美感である。
中井正一 著 「美学入門」より。
西欧に行くとなんとなく必ず足を運ぶ教会。
訪れると落ち着くというよりは、堪える、塞がれたものをえぐられる。懺悔の気持ちを呼び覚まされる。そのような気持ちになる。
濃厚な食事の後に更にディープなコーヒーを飲み、外に出ると雲が立ち込めた暗曇な天気で、食傷気味な胃袋が気になり、空と同様すっきりしない。そのような感覚に似ている。
教会建築が持つ重厚感や圧迫感は、宗教観の違いから生まれた結果として出来た空間であると聞けば、なんとなく説明のつく感じがした。
なるほど。
神社を訪れた後は、食後の煎茶を味わったような清涼感とともに、外は冷たい空気が頬に気持ち良い。
そんな感覚をいつもイメージする。
静が、自分の中に佇み、生まれる気持ちになる。
まぎれもなく自分は、日本人だ。
全てはそれぞれの教典へと通じる。
音楽のルーツも同じように各々の宗教教典へと通じてるようだ。
竹。
ちょっと遠回りな話になりましたが、本日は南洋黒真珠を使った、大人インパクトの風にしなる竹のネックレスのご紹介でした。
しなやかな竹のような大人でありたいですね。
香港も随分と変化したのだろうなあ。