2023.04.23
カタクリの花自生群
先月は行けなかった登山。
昨日、山口県岩国と島根県にまたがる寂地山へ行った。
山頂は山口県であり県では最高峰。
偶然知ったのだが、ちょうど今がカタクリの花の自生群が満開だという。
日帰りが基本の登山、さすがに広島近くとなると少し迷ったが、出発が午前4時半であれば登山口に8時前に到着可能ということで決行!
寂地峡は新緑の柔らかな緑に溢れており、朝陽を浴びて透けるような眩しさだった。
登山口からいきなり急登で名所と言われる滝をいくつもいくつも見ることができ、滝壺から広がる風は全身の力が溶けるようだった。
さて、カタクリの花、実際にご覧になられた方は多くはないかと思います。
私も初めてでした。
球根には良質の澱粉が含まれるので片栗粉の原料となるらしいのですが、現在では森林の荒廃や別な草木で生息域が得られず簡単に見つけることはできなくなっているらしいこともあり、自生群は山でしか見れなくなってしまった模様、そんなわけで今は片栗粉はご存知のようにじゃがいもの澱粉が代用されております。
カタクリの花は種子から花が咲くまでに最短でも7年ほどかかるらしい。1年目は芽をだすだけ。2年目以降は葉を一枚だすだけ。
そしてようやく7年目の早春のほんとに短い間だけ花を咲かせるそうです。
下を向いたゆりのような可憐な花たちは、春の妖精という別名がついているそうです。
登頂し続けること3時間、ミノコシ峠に辿り着くとこの可憐なカタクリの花たちが両脇に咲き山頂までずっと登山道のナビゲーションをしてくれました。
ひとつひとつの花びらが個性的に開き、まるで妖精たちが飛び回っているようでした。
フラワーパークなどでは花の絨毯さながらで整然と並んで花が咲いている様子を見ることができます。
それはとても美しく素晴らしいです、関わった人々の愛情と労力、敬意を払う思いです。
でも、どこか私の中では違和感のようなものが隠れている気がしていました。
昨日、自生群を見ながらなぜそう思うのか気づいたことがあった。
理由は、人の作った世界を見ているからではないだろうか。
自生群とは、命の循環。
命のあり方が違う。
そこはとても大きな違いであるように思った。
1週間前の寂地山頂付近は霰や雹が降りとても寒かったらしい。
ミツバチが花粉を運び、種子をアリが運び、肥料も栄養剤もない環境で寒さに耐えてタイミングをじっと何年も待ち咲く。そうやって少しずつエリアを広げてゆく。
みんなが生きるためにいつものように活動してくれることで生きることができる。
その姿を見せてもらえる事が奥深くに届くからなのかもしれない。
付随してもうひとつ気がついたことがあった。
おそらくフラワーパークの花の絨毯や千本桜よりは、立派な樹齢の一本桜に惹かれてしまうこの個人的な傾向。
自分の中にある美感のモノサシが元来、公の人々の感覚と少し違うのではないだろうか。
マジョリティではなくマイノリティなのだろう。
そのことはまだ大人として程遠い年齢の頃から大人の女性のためのアクセサリーを目指し、作り続けてきたことに通じているのかもしれない。
でも、それでよいと思えた。
いいじゃないか、そんな少数派が居ても。
そんなことを思いながら下山したしばらくぶりの登山らしい登山は、総歩行7時間半。
あちこちからのベテラン登山者たちにも会えて、楽しい会話やカタクリにまつわるいろんなお話も聞けて大満足。
昨日、感じたこと、どんなに稚拙でも自分の中から出てきたものであることに違いはないのだから、大切にして忘れないように過ごしたいと思うのです。