2017.12.22
道具と風情
ちょっと面白いお店があるのよ。
数年前、友人に連れて行って貰ったお店は、タイムトリップしたようなものを集めたリサイクルショップだった。
そこで、ちょっとモダンなスリムさの小さめの洗濯板を見つけた。
思えば私の生活はこの一枚の洗濯板がきっかけで、少しずつ方向転換を始めたような気がする。
時短な家事が謳い文句の便利家電や、生活用品が溢れ始めている現代風潮の最中、まさに逆行した方向転換。
昔ながらの生活様式を取り入れると、確かにどれもこれも一作業、二作業手間がかかる。
こんな手間なことやめちゃおうかな、そう思うこともあった。
しかし、習慣化してくるとその手間を打ち消す何倍もの新しい連鎖的発見と楽しさに気づき、いつの間にか手間は、うるおいに変化し、機嫌のよい平穏さを日々感じるようになってくるのである。
道具というものは、手の代わりをつとめたり、人間の力ではどうにもならないことを補ってもらったりするためのもの。
もちろん時間の節約は、言わずもがな。
しかし、この頃では道具に道具自身のクリーニングという後始末までさせてしまうものもある。
人間はどこまで図々しく怠け者なのかとふと恥じる。
道具に道具以上の役目を求めるというのは、果たしてどうなんだろう。
人が道具の力を借りて作業を成すのだから、せめて道具のメンテナンス位は人がやるべきではないか。
と、自戒する。
不思議なもので。
手間をかければかけるだけ、生活のひとつひとつに命が入り込むようなきらめきを感じることがある。
風情や趣とは、手間をかけるからこそ生まれるものであり、その手間を省くと風情や趣は途端に飾りものとしてなり下がってしまう。
これは、生活だけでなくどんな仕事にも通じているように思う。
誰かが言った。
生活を粗末にすることは、自分を粗末に扱うことに等しい。
そんな人が良い仕事をするとは、到底思えない。
的外れな言葉ではないように思える。
良い仕事をする。
それは、目に見えない地味な手間の部分が作り上げるのだ。
飾りものではない純然たる風情や趣のようなものを、人の心にそっと残せるような仕事ができるようになれるよう、まずは生活からだ。
昔ながらの生活様式をちらちらと取り入れることで、そんな風に思うようになった。
我が家にやって来たちょっとモダンなスリムさの洗濯板に、今更ながら、ありがとう。