2015.11.12
人生の大先輩がメールを下さった。
幼い頃より、ある宗派のキリスト教信者だったらしいのだが、その宗派では自分の考え方と相違することや疑問が多く、悩み、ついには教会に行かなくなってしまったらしい。
ところが、この頃出会った牧師さんの宗派は、これまでの疑問を解決してくれ、さらに 自分の考え方や感性にもとても合い、齢80近くにして改宗し洗礼を受ける一大決心。現在、聖書の勉強と準備で忙しい日々であるということが記されていた。
死の間際で自己統一できたことをとても嬉しく思う。
毎日にとてもはりがある。
文面はエネルギーに満ち溢れ、文字を通り越してほとばしるような気を発しているように感じた。
「人間、何が不幸かと言えば人から必要とされないことだ。」
マザー・テレサの言ったこの言葉は、本当ですね。
メールの最後に綴られていた文章が、数日頭から離れなかった。
人生で成功することや幸福になることは誰しも望むことであろう。
たとえ何も成し得なかったさえない人生のように思えたとしても、誰かに必要とされる人間として生きたならば、その価値は大きく逆転する。
成功や幸福が示すものは人の数あるが、この事は万人に共通した揺るぎない礎だ。
我々は生きている間にたくさんのものや人に出会いながら、そのことを感じる多くの機会を得ている。むしろ、与えられていると言った方が適切なのかもしれない。
社会でかかわり働くこと。
家族が自分のために奉仕してくれること。
今日乗ったバスの運転手。
さっき買い物したスーパーのレジの女性。
日常で見ず知らずの人が、自分のために働いてくれていることでさえも、実は人が人を必要としていることを感じる機会である。
私は、誰かに必要とされる人間であるのだろうか。
その誰かは、今の私をとりまく環境を失ったとしても、必要としてくれるのだろうか。
素地がむきだしの自分であったとしても、必要とされるのだろうか。
これが人間が求めてやまない、愛の本質であるのだろう。
ミッション系の短大時分、キリスト教学なる授業があったというのにテストにパスするためだけの暗記しかしなかった。あの時、既にこの学びの機会を得ていたというのか。
人生の大先輩のメールが、漸く気づきのきっかけを下さり、深く心に染み入り大きな波紋を残した。
本日ご紹介は、固い話とは裏腹な、
軽やかな双葉の草花ペンダント。
きっと誰かに必要される存在として生まれたばかりの草花、なのさ。