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2016.10.01

教養たるもの

 

 

あなたにとって品性とはどういうものですか?

仕事で関わっているいつも朗らかで寛容な方に、真顔で尋ねられたことがあった。

 

自分自身に敬意を払うこと。

そして、自分以外の存在にそれ以上の敬意を払うこと。

 

そう答えた。

 

よほど解せない事があったらしい。対象となる相手が長い付き合いの方だったこともあって、私が知る限りではほぼ初めてというほどの重く静かな雰囲気が流れていた。

 

 

 

家族や学校という小さな単位を離れ社会に出て、あらゆる面で違いというものが存在することを知る。

 

 

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その過程の中で育まれてゆくのが教養というものであろう。

親や学校の師たち以外の他人様に学びを得る。

正確には、学ぶ姿勢を持ち続ける。

師を仰ぐ他人様は必ずしも年長者とは限らず、対象となるは生きとし生けるもの森羅万象。

良きことは意識をもって模倣をし繰り返すことで、かつては模倣で始まったものも自然のうちに身につき自分自身の一部となる。

そうやって得た教養は、いつしか品性となって染み込んでゆきじんわりと外へ流れでる。

それは、不思議なことに自分以外の周囲が敏感に感じとるものになる。

 

それだからこそ、教育よりも重要なのは教養であるような気がする。

 

もちろん、人としての最低限の教育という素地ができていなければ、教養は根付かないと思われる。

 

我が身も社会的にはもういい年齢に達している。

仕事、生き方、自分なりの品性というものが、欠如してはいないかと改めて肝を冷やす思いで拝聴した次第でありました。

 

 

 

2016.09.17

自分の全てを連れてゆく

 

 

そこへ向かうこと。

自分の目で見た、触った、嗅いだ。

 

 

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そのことを通して感じたことを、自分の中の真実と捉えるようにしている。

そこへ向かう時には、他人の感覚や聞いた話や情報をまとった自分ではなく、素の自分の全てを連れてゆこうと心がけている。

 

感覚は欺かない。

判断が欺くのだ。

 

ゲーテのこの格言は真理をついているように思う。

若い頃は、説明のつかない直感的なものを随分と無視して生きていた。しかし、年齢を重ねるうちに、思い起こせば一番最初に湧いてきた感覚にほぼ狂いはなかったのだ、という着地点に収まることが増えてきた。

 

感覚は欺かない。

心の中に止めておくようにしている。

そうすれば、どんなに浮かれるようなこと、絶望的なことが起こっても少しは冷静に判断ができるだろう。

 

 

fujisan

 

 

珍しい光景を飛行機の中より見た。

眼下に広がる雲海。

富士山の頂上が島のようににょきっと顔を出していた。

 

 

 

2016.08.28

千葉展のご案内はひとつ戻ってね!

 

 

 

今朝は解放した窓から窓へと流れる風のなかから、静かなメロディが聴こえるような気がした。

 

ああ、秋の気配が混じっている。

 

床2

 

 

 

先日、何の知識もなくジャケットだけで判断して購入したCDアルバムが、あまりにも自分の求めていた音楽スタイルだったので、ひとり大興奮した。

 

人は、常に背負っている外側の自分を手放し、最も深い自分の心と寄り添える瞬間を得られるときがある。

そのナビゲーションツールは、千差万別。

自分にとっては音、映像、言葉のマッチングが大半を占める。

目が捉えたものや響いた言葉にどんな音があればより深く自分の心へ向かえるか、与えられた選択肢の中からはある程度選び抜くことはできるように思う。

けれども、自分には音を奏でる能力が微塵もない。よって他人にそれを表現し説明することはいつまでたっても出来ない。

それが容易くできる方に代弁して頂くしかない。

しかも、この世に数多ある選択肢の中からだ。

 

ぴったりするものが自分の前に現れたそのとき、しっかりと捕まえられるよう希少な機会を待ち続けながら、日々の生活を送る。

 

その様は、自分自身を外側にいる人間として客観視するならば、それを欲しているようには全く見えないに等しい。

 

自分が望むものを自分の外側に表現し説明することはとても難しい。

外と接して生活することで、自分以外のものたちが望むものと自分が望むものとがすり替えられてしまい、本来強く望んでいたものを思い出せなくなるときもある。

 

自分の中に充満するほどに何かを感じ、自分の中の何かが確かに動く。肉体を離れた存在を感じること。

 

その瞬間は、ひたすらに高く昇り仰ぎ続ける時もあれば、深く深く安寧の場所を目指し潜るときもある。果てしなくたおやかに翔び広がり続ける時もある。

 

私たちは、自分が求めるものを忘れないためにナビゲーションツールを使って、時々心を動かす方が良いように思う。

 

 

真夏の迫るような暑さに一区切り。

8月も数日となった。

 

心動かされるものたちをたくさん取り入れられるように、心のなかにスペースを少し確保し新しい季節を迎え入れよう。

 

 

 

 

2016.08.11

無意識という顕在的行動

 

 

8ヶ月位になるだろうか。

 

ヨガを始めた。

外からの情報だけしか持たない時分は、なんとなく宗教的な匂いと閉鎖的なイメージを勝手に抱いていたのだが、体験初日にその無知な勘違いは払拭され、これは自分に向いている!!と直感で感じた。

事実、クラスに行くのが楽しみで週4日時間を確保して通っている。

生活も一遍した。

 

 

たんぽぽ

 

 

 

 

ヨガを始めてこれまで意識をしていなかった気付きと変化を多く得た。

他人にうまく説明ができない部分での気付きと変化だが、今日のクラスのなかで先生が引用した哲学者の言葉がそれらを言葉として伝えるのにとてもぴったりくると感じた。

 

自分の外ばかりを見る人は、夢を見る。

自分の内を見る人は、目醒める。

 

 

内を見る静の時間を得ること。

私は仕事上ひとりで制作するので静の時間は多い方だが、体の力を抜き心を解放する時間を得ることとはまた別で、できそうでこれはなかなかに難しい。

 

今日のクラス終了後の先生との雑談のなかで、日本で初めてヨガを伝えた人は、中村天風氏でこの方の本はおすすめだと話してくださった。

 

驚いた。

私は7年ほど前に中村天風氏の教えをまとめた本を一冊読んでいた。

定期的に本は売ってしまうのだが、この本は感銘を受けたので手元に置いておこうと決めているものだった。

 

呆れたことに、それがヨガの話とは当時ピンとこなかった。

しかも、始めて8ヶ月も経つ本日までヨガと接点があるなんて1ミリ足りとも感じてなかった。

 

人間が無意識で行っている行為は、すべて意味がありそれが最も自分の存在に忠実な目醒めた自分の行いであるのだろう。

 

どんな時でも軽やかに浮遊するほどに心を解き放てるようになれれば、どんなに自由を感じられることだろう。

 

それが目醒めた自由人なのかもしれない。

 

 

 

2016.08.04

フェティシズム

 

 

 

 

コレクターでもなんでもないのだが、我が家にはどうもブラシというものが多いようだ。

 

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あまりケチりたくないと自分に訳しながら集まってしまうCDや本の埃取り、キッチンや食後のテーブル用、黒い服が多いので衣類用、音楽プレイヤーやパソコン機器、家具や寝具用。

 

なんともまあ用途に応じたブラシたちがあちこちの部屋に居る。

 

一本でカバーできれば良いのだろうが、やはりそうはいかない。

実はお化粧のブラシを代用しているものもある。

 

掃除には、順番があります。

まずは上の方から順に埃をはらい落とすことからです。

 

お仕事でお付き合いしているショップのオーナーさんのこの言葉が、きっかけでした。

 

うちにはちゃんとした掃除グッズがあるのだろうか。

 

事実そこのオーナーさん始め、スッタフさん全員が、お客様がいらっしゃらない隙に常にブラシやハタキを持ち、お店の商品棚や私の作品展示台などの埃を払い落としていた。

 

なるほど。

店内がいつ伺っても澄み切った空気が流れているように感じていたのは、そういうことだったのか。

 

気の流れ。

まずは窓の開放。

上の方から順番に。

 

埃を払い落とすと、持ち物が再び呼吸を始めるような気持ちになるのです。

 

やっぱり

ブラシフェチ。

かも。

 

 

 

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