2017.06.20
北九州個展の案内は、ひとつ戻ってね!
節目の年齢となったこともあり、中学、高校と同窓会の知らせが連日して届いた。
転勤の多い父親の仕事の関係で縁もゆかりもない土地で、私は、中学、高校時代を過ごした。
いわゆる転校生として誰も知らない学校にやってきたのが中学2年生だった。
この年齢になると思うのだが、とっても狭い世界で生きているのが学生というものだ。
当然だ。10年ちょっとしか生きていないのだから。
そんな中でも各々の個性や人となりという根っこの部分が、仕上がってくるのがこの期間ではないだろうか。
案内の中に書かれた役員メンバーの中に、当時、親しくさせて貰っていた方の名前があった。
名前を見た途端、私は中学生の私に戻っていた。
笑い出したら止まらなくなり、何がそんなにおかしかったのかと思い出せないこと自体が、更に可笑しくなって、お腹がよじれる位大笑いしたことや、港近くの彼女の家へと下る坂道から見えた海、嫌なこと、落ち込んでいることを打ち明けたら、話終わるまで黙って聞いてくれ、大丈夫よ。気にしない!気にしない!
お母さんみたいな優しい言葉をかけてくれたこと。
授業中にくだらないことを書いて回したメモを、教科書の陰に隠しながらこっそり読んで、くすくす笑う彼女の横顔。
スポーツ万能で必ず優秀な成績を出していたのに、いつも控えめな態度の彼女。
とても懐かしく、出欠の返信ハガキの備考欄に彼女宛のメッセージを記入した。
昨日、彼女からお便りが届いた。
懐かしい彼女の文字だった。
とっても嬉しかった。
私は、転校生だったので、その土地にはもう帰る家がない。
小さい頃から、引越しを重ねていたので、幼なじみという存在と関係を知らない。
これまで過ごしたいろんな街で親しくさせて貰ってた人たちの顔が途端に浮かび始めた。
躾は、親、兄姉、親戚縁者によるもの。
知識は、生きている限り努力を続け得てゆく本人によるもの。
学校では大きな社会に出る前の予行演習。
コミュニティにおいてのルールの中で自分と違う他人の存在を認め、人間の尊厳というものを知る。
そして、大きな社会の中では全くの他人様を通して学校生活で得たことに更に厚みをかけ、人としての品性を養い、自他ともに認めあい社会に少しでも役立つ存在となることで、学ばせて貰った社会に恩返しをしてゆく。
なんとも偉そうなことを書いたが、
できているかどうかは別として、そんな風に思っている。
生きている時間は、どの時間も一様に大切である。
その大切さに気づくのが、いつも渦中の時を過ぎた時である。
それが、人間の脳が持ち合わせた愚かな忘却のメカニズムである反面、生きている限り何度も与えられる希望という新しい時間なのかもしれない。
誰にでも平等に与えられる優しい時間とも言えるのだろう。
お便りありがとう!Hさん。
でも、お返事書きたいのに住所書いてなかったよ。