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2025.10.26

庭での学び

 

 

 

拠点を移して全ての季節を過ごし一年が過ぎた。

 

戸建て生活は、これまでのマンション暮らしとは全く異なるものである。

特に庭。

この家の購入時点から不安だった手に余る広さの庭。

この管理をどうするか、これは一年経った現在、かなりの重要な問題として感じている。

 

 

10月の初旬から2週間程で、ひとつの種類の草が庭全面を覆ってしまった。

昨年は生えなかった名も知らぬ草。何故だ。

恐ろしい程の勢いだった。

しかし、個展の準備と暑さ、とても草を取る気力がなかった。

今週、気温が落ち着いてきたので、父の手を借りて4日かかって全て取り終えた。

たかが雑草取り。

いえ、今回、自分にとって大きな気付きががあったのです。

思えば、まだ私は庭の仕事をする装い、小道具、準備すらできていないと痛感。

父の持っている道具を借りて、コツを聞いて、それぞれのエリアに別れて作業を始めた。

程なく、遅々として進まず気が滅入りそうになり、庭の全体を見て、陽当たりの良い部分で大きく育っている草を取り周っていたら、父にすぐに指摘された。

素人はそういう風に大きな目立つものに最初に手を出し、あちこち掘り返す。夜に雨が降ったら、翌日やりにくくなるぞ、取り損ねた草を埋めてしまうことになる。

決めた場所から順序よく取っていかなきゃだめだ。

 

ちぇっ。だって目障りなものは早く取りたいじゃん。

草に覆われて土が見えなくなっている庭を見ながら、ため息が出た。

 

2日目、その意味がよく理解できた。

ハーブ畑にしてるコーナー、紫蘇を植えていたコーナー。

マスを決めて取り掛かると、見たこともない小さな虫が慌てて動き出す。他にも色んな種類の生き物の存在を見る。

いったい何種類の生き物がいるのだろう、皆んな必死に生きているのだ。

小さなマスの中での作業は、おのずと丁寧になる。

そして終わった後、きちんと土が見えると気持ちがよくすっきりする。

マスの中に集中しながら、同時に庭全体を見ることはできない。

全体を見る時、人は作業が雑になってしまう。

たとえその日、済ませた部分が小さくても、今日はここが確実に綺麗になった。と、寧ろ潔い気持ちで次回に持ち越せる余裕ができる。

一人の人間が全体を見て作業を早く完遂させようとすると、必ず雑で散漫になる。そうなると仕上がりは中途半端になり、納得できずにやり直しをせざるを得なくなることもある。

人の集中力はそう続かない。

連携プレイや集合になるとそれが可能になる。会社の起源、組織ということか。

ああ、日々の仕事、アクセサリー制作の過程でも同じことがある。

確かに、工程を急ぎ仕上がりが気に入らず、作ったものを壊し銀を無駄にしたことが何度もあった。

 

これって、結局、日々の生活と同じだ。

1日というマスの中でまずは精一杯生きる。

あまりに先を見ようとすると楽しめなくなり、行動にためらいが出て身動き取れなくなる。

とはいえ、たまには立ち止まって全体を見ることも必要。

 

庭には人生哲学があるとは、よく耳にするが、思えば含蓄のある言葉だ。

 

年齢を重ねたタイミングで庭や盆栽を始める。

理解できる気がした。

 

3日目。

先月まで早朝には、必ず鳥たちが庭に遊びに来てチュンチュンと鳴いていたのに、草が覆ってしまってからそういえば来ていないと気付いた。

父に尋ねた。

 

そうだよ、地面が草に覆われると鳥は降りて来ないものだ。

木には来るけどな。

 

土の面積が増えた3日目。

作業している側から鳥たちがあちこちからやって来たのだ。

4日目の朝。朝食をとっていると庭の澄んだ空気に鳥たちの声がよく響いた。

ほんとだ。土が恋しかったんだ。

鳥だけでなく私も。

 

蚕食という言葉があるらしい。

蚕が桑の葉を端から食べ尽くすように、他の領域を侵略してゆく様子を表している言葉だそう。

 

人が土地を持ちそこに暮らすということは、日ごろ意識していない生命たちと、せめて共存できる程度の土地の手入れを怠ってはならない、その覚悟を持つことなのだと思った。

それが所有する人間の責任なのかも知れない。

何かを所有するということは、そういうことも含まれているのだろう。

 

 

 

 

 

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