2020.11.14
戻るべき場所
ここのところ秋晴れが続き空の下を感じるだけで幸せな気持ちになる。
先月からトレッキングを再開した。
若い頃には見つけられなかった趣味というものを、人生折返しの年齢になってからやっと掴んだ。
こんな仕事をしているせいか、アウトドアが似合わないように思われがちで、自転車を始めた時にも自転車に乗れるのか?と言われた位だった。
人は、仕事を取り巻く環境などから形成されやすいので、仕事を通して出会う人は、特にその人の大半を分類化してしまいがちなのだろう。
型にはめやすいという傾向にある大人の感覚は、否めないところである。
人の持つ意外性というものに私は興味がある。
自分自身も他人に意外性を与える人間でありたいと、こっそり思ったりしている。
山で出会う再び会うことのないかもしれない人と、登山口や頂上で話す機会は非常に多い。
共通した目的を持った初めて出会う人々。
その共通意識下というものが理解できるからか、出会う人々はとても清々しい方々ばかりだ。
苛々したり、不機嫌な方なんていない。
見せてくれる自然の姿が、全ての負を吸収し浄化してくれるという信頼と安心感に包まれるからだろう。
先週は大分県別府市を一望できる鶴見岳を訪れた。
紅葉の絨毯を踏みしめながら、吹き抜ける風やゆらめく太陽の光に、心がどこかそおっと帰るべき場所にゆっくりと深く戻ってゆくような気持ちになった。
あの感覚は、どんな人も必ず持ち合わせていると思っている。
人間は、個であり、戻るべき場所がありその場所に時折沈黙と共に深く戻る時間が必要なのではないだろうか。
どんなに自分の感情や思いをコントロールできる人であっても、周囲や雑念に引っ張られおりがたまるようにして、ささくれ立ってくる時がある。
それらをどんな手段で手放すか。
それが、いわゆる趣味というものなのではないかと思ったりしている。
その趣味も、若い頃はがむしゃらになって本末転倒な状態になったりする、自分のレベルが客観視できるようになった年齢だからこそ、ゆったりと構えられるのかもしれない。
自分はこんな楽しみ方で進めよう。
そんなスタンスが程よいあんばいで、長く続けられるのではないだろうか。
何かを始めるのに遅いということはない。
寧ろ、多少遅いくらいが見える角度も広がり、自分自身の過去の経験とのリンクや発見、気づきが豊富になるのではないか。
そんな気がしている。
そうやって、興味を持たれる方には、トレッキングを薦めている次第である。