2018.11.07
微笑み顔施
女性の微笑む横顔の鉄板切り抜きアートを海辺で見つけた。
働き続けて年齢を重ねてくると、対価として頂いた金銭でただ生活をするだけでは不確かな気持ちになることが増えてくる。
自分ができることが誰かにとって少しでも何かを与えられているのだろうか。
仮に少しでも出来ていたとして、それは一体どんな種類のものなのだろうか。
そんなことを考えるようになる。
人が人に与えるものとしてイメージするものの多くは、金銭やモノ、名誉、地位、権限、概ねそういったところだろうか。
仏教用語に顔施という言葉があるらしい。
生まれたばかりの赤ん坊を大人たちが見守っていると、赤ん坊は泣き止み、やがて笑顔になった。
それを見ていた大人たちは、たちまち幸せな気持ちに満たされ、つられてみんな笑顔になった。
その一部始終を見ていて、生まれてきたばかりの何も持たない赤ん坊でさえ、人に笑顔というものを与えることができるのだと悟る。
そんな話だったと思う。
笑顔や笑い声が聞こえる所に人は集まる。
嫌なことや辛いことが重なる時にこそ、笑顔という顔施を忘れずに機嫌よくいようと努めること。
そのうち、負の気も引き払ってしまうだろう。
自分の顔は、肉眼で確認できない。
鏡を通してしか確認できない。
顔を他人に向けて施しているのであれば、努めて微笑む位がちょうど良いのかもしれない。
女性は特に。
海辺の鉄板切り抜きアートを見て、そんなことを思い出した。