2018.07.02
美味しいお茶
朝礼後、給湯室でお湯を沸かし社員全員の日本茶を淹れて、カップを間違えずにお茶を配る。
お昼時、休憩時。
新入社員の第一歩。いわゆる、お茶汲み。
私が入社した会社は急成長している頃で、昭和の女性社員にはほぼ必須とされた、このお茶汲みの慣習が全くない会社だった。
日本茶を飲む社員は所長はじめ誰もおらず、コーヒーマシーンで落としたコーヒーをそれぞれが飲みたいタイミングで飲む。
そんな社風だった。
社風というよりは、始業から終業まで一日中、電話が鳴り止まない会社だったので、むしろそんなタイミングを取ることが難しかったのだ。
そして、後に全く畑違いで全く環境、時間の流れも違う今の仕事を始めた。
今から10年ほど前のこと。
あるギャラリーでの個展の折、お客様が引けたタイミングでギャラリーのオーナーさんが、お茶を淹れましょうねとにっこり笑って手を洗い始めた。
接客でずっと話し続けていて喉が渇いていたので、とてもありがたい頃合いだった。
やかんを火にかける音がした。
湯冷ましに移し替える音。
急須から器に注ぐ音。
ゆっくりと時間をかけて。
おまたせしました、どうぞ。
静かに出された日本茶。
程よい温かさがカップを通じて心の芯まで届くようだった。
ひとくち。
そのお茶の美味しかったこと。
日本茶がこんなに美味しいと心底感じたのは、実はこの時が生まれて初めてだった。
あまりにも美味しかったので、おかわりをお願いして、茶葉の銘柄を尋ねてみた。
にこにこしながらギャラリーのオーナーさんが答えて下さった。
実はね、隣のお茶屋さんの並のものなのよ。ごめんなさいね。
ああ、失礼な質問をしてしまった。
茶葉の違いじゃない。
お茶の淹れ方が素晴らしいのだ。
私には、こんなお茶は淹れられない。
その日、私は若い頃の自分を思い出していた。
美味しいお茶の淹れ方は、みんな、一体いつどこで学ぶものなんだろう。
美味しい日本茶の一杯も淹れられずに、こんな年齢になってしまった自分が急に恥ずかしくなった。
コーヒー、紅茶、とにかくちゃんとしたお茶の淹れ方をまず知ろう。
豆や茶葉を買っても、せっかく親切に書かれている美味しい淹れ方の案内もまともに読んだこともない。
知ったふりして飲んでいた嗜好品のあれこれ。
煎茶だけではなくコーヒー、紅茶、どんな飲み物にも温度管理や蒸らしのための待ちの時間が大切だと分かり、砂時計を買ったのもその頃だ。
その日の気温、季節、気分などで淹れられるように、それまで砂時計を使ってお茶を淹れる時間感覚が身につきますように。
中でも一番難しく、味の変化が楽しめ、かつ味わい深いのは、煎茶のように感じる。
私は幸か不幸かお茶汲みがない会社に勤めていたが、当時、別な会社に勤めていた友人が、お茶汲みばっかりで嫌だ。もっと仕事がしたい。と羨望まじりな愚痴を言っていた。
今、思う。
友人は、あの時もう既にきちんとしたお茶の淹れ方を学べていたのだ。
若い頃に経験しておくべきことが身につかないまま大人になってしまうと、自分の不甲斐なさに恥じ入りたくなるような思いに突如、直面することがある。
たとえ周囲は気にも留めないようなことであっても、これは、自分にはかなり堪える。
それでも気付いた時から、学ぶことはできる。
真似ることもできる。
詳しい方に教えを請うこともできる。
年を重ねるごとに、知らないことが多いことに気付かされる。
むしろ、知っていることの方が極々僅かなのだ。
そう思うことで、新しい知識を取り入れることも楽しむゆとりとして切り替えられる。
それに関しては、年を重ねることで得てきた生きるテクニックと言えるかもしれない。
美味しいお茶を、誰かのために。
一杯。
そして、いつか銘柄を尋ねられるようになる日まで。