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2018.06.21

 

 

夕霧草。

 

線香花火のように咲く深い紫色した夕霧草。

日本の花の名は誰がいつ頃つけたものだろうか、とても情緒のある名が多く、花の名は和名の方が気になるたちだ。

 

漢字になったものを目にすると、まるでその花の姿そのものに見えてくるものや、音で聞くより生息環境などを理解できるもの、その花の性格までもを表しているように思えたりする。

個々の花、その生き方や物語を感じさせる。

まるで人のようでもある。

 

 

 

 

 

食卓の一輪挿しに飾る夕霧草は、音のない小さな花火のようだ。

花の向こうに茜色の空が見えるような安らぎが漂う。

 

空間を邪魔をしないそのバランスの取れた存在は、洋花にある誰が見ても感じる魅力とはまた異なる。

この花には、夕暮れ時に誰もが感じるあの名残惜しさや寂寥感のようなものが少しだけ混じっている。

 

そこの部分がどこか安寧する故かもしれない。

 

人もそうだ。

いつもいつも元気で前向きで笑っていられたらよいのだが、実際そんな方がいると時に重たく感じるものだ。

寂しさのようなものや不安を垣間見た瞬間、その人のことをより人間らしく近くに感じるもので、ふと寄り添ったような気持ちになる。

 

人が持ち合わせている孤の部分は、生身の人間であるという証しのように思う。

過剰に演じたり、偽る必要はないのではないだろうか。

 

内なる孤を抱きしめる。

そんな気配のするものを無意識のうちに選び、身の回りに置くようになってきた。

 

 

夕霧草。

宵の刻、今日もどこかの食卓で小さな音のない花火があがる。

 

 

夕霧草ペンダント。

 

 

 

 

 

2018.06.18

 

 

 

シガレットピアス。

 

 

 

 

 

 

確かに煙草は体にはよくないのだろう。

愛煙家たちの健康のため、嫌煙家たちのため、すっかり浸透してきている電子タバコ。

 

煙草が一箱千円になったら、辞めることを考える。

辞めることなどみじんも感じさせなかった友人が、ずいぶん早くに電子タバコにシフトした。

意外だった。

そもそも電子タバコとはどんな仕組みなのか?

煙草には全く縁のない私に分かりやすい説明をしてくれた。

この電子タバコで一服するには、実は、予め充電器で充電が必要なんだよ。

 

その話を聞いて吹き出してしまった。

電子タバコとはよく名付けたものだよ、説明しながら私の吹き出す姿を愉快そうな顔して眺めていた。

 

長引く会議も詰まり気味。

ちょっと一服して充電してきますわ。

席を立つ上司。

サラリーマン時代に過去経験したシーンをふと思い出した。

 

タバコを吸う行為が充電であった筈なのに、実際にコンセントで充電という事前準備が必要な時代になってしまったというわけだ。

充電のための充電。

時代は進んでいるのか後退しているのか分からない。

 

 

話は続いた。

吸いたい時に吸えないのは嫌だからと予備充電器まで持ち歩く。

煙草を吸うための一式がこれだよ。

これは、ただの喫煙似非行為だ。

あまりにも味気ない。

辞めることを前提という意味でのシフトということにするんだ。

今度は、渋い顔をしながら決意表明の自分の言葉を噛みしめるようにしてうなづいていた。

 

 

便利になるということは、情緒がなくなることである。

手軽さを得るためには、趣や情感を失うことを代償として差し出さなければならない。

もっとも、手軽さしか知らなければ、失う感覚もないのだろうが。

 

 

煙草を吸う粋な男たちの映画の世界に憧れた時代に生きた友人は、

煙草吸うタイミングやシーン、グッズなど個人としてのこだわりを含めて何かしら嗜んでいたのだろう。

 

私が初めてヨーロッパへ行った時には、まだ飛行機の座席には喫煙席があった。

喫茶店という言葉も、もう死語だ。

お茶をする場所は今ではカフェと言われているが、では日本語で表現するならばどうなるのだろう。

甘味処でもない、茶屋でもない、思いつくのは古めかしい言葉ばかりだ。

 

 

時代は更に進み、電磁波機器持ち込み禁止車両や食事処などが出てくるのではないだろうか。

 

あらゆる趣味嗜好を持った人々と共存してゆくこと。

これが、世間に属し生きるということだ。

私の嗜好も誰かにとっては不愉快かもしれないわけでもある。

 

しかし、煙草の匂いはあらゆるものに恐ろしく残り香を付着させてしまうので、本音のところは苦手ですなあ。

 

 

 

 

 

 

2018.06.12

 

 

 

帯ペンダント。

 

このペンダントは、実は前回アップのトルコ石のペンダントと土台の形は同じなのです。

ダイヤ型、とはいえ、御多分に洩れずな変形ダイヤ型なんですが、その土台の上を帯が巻いているイメージ。

 

 

 

 

 

荒目ヤスリ目を残した感じで仕上げて、ちょっとこなれた普段着な帯。といった感じでしょうか。

 

銀ならではの艶やかさを出せる鏡面仕上げも好きなのですが、こんなユーズド感も受け入れられるのも銀のよさではないだろうか。

 

服地でいうところのデニムのような素材かもしれない。

きれいめの装いにもできる、ラフな日常着にもできる。

本来は作業着であった。

 

身につける人のその日の目的に沿う。

こなせばこなすほど身体にフィットしてくる。

 

そんな銀の装身具になれるよう、今日も明日も銀に触る。

 

 

ちなみに。

同じ型の前回アップの一点ものターコイズペンダントは、誕生月がターコイズの元へとお嫁に行きました。

きっといっぱい愛情頂けることでしょう。

元気でね。

にっこり。

 

 

 

 

 

 

2018.06.05

 

 

 

ターコイズペンダント。

 

形、大きさ、色味共に魅力的なターコイズが手に入ったので珍しく色のある世界を楽しんだ気分だ。

 

 

 

 

 

マット感のある色石は、どうせならば大きいものの方が楽しめると思う。

12月の誕生石と言われているターコイズは、色も含めいろんな表情のものがある。

以前、バンコクを仕入れで訪れた折にターコイズ専門のお店を偶然見つけた。

店内の壁は落ち着いたテラコッタ色に塗られていて、一見カフェのようだったが、そこには今まで見たこともないありとあらゆるサイズのターコイズが壁や天井、足元や棚、そこら中にひしめいていて圧巻だった。

 

カゴの中に小ぶりなブロック状のものがまとめてあったので、色と形の面白いものを幾つか選び、支払いをしようとしたら店主に聞かれた。

 

これを何に使うつもりだい?

 

アクセサリーを作ろうと思う。

 

なるほど。穴は開いてないよ。

 

分かってます。

 

ここは、実は建材としてのターコイズ専門店なんだ。

アクセサリーか、出来たら見せてくれないか?

 

私は日本から来ている。明後日には帰るので、またバンコクに来たら見せます。

 

と、ジャパニーズスマイルで話した。

店主は、タイスマイルで頷いた。

 

どうりで店に入った途端、不思議な面持ちで見られていたわけだ。

 

私は宝石という観点よりも、河原にある形のよい石であったり、自然が生み出した美しい木の実や種であったり、木の皮であったり、そんなものたちが銀ととても馴染みがよいように思い、旅先ではそんな素材やヒントがないかときょろきょろうろうろしている。

 

人によって大切に思うものはそれぞれである。

そんなものを加工し形にして身につける為の素材として、貴金属の中で最も適した素材が銀ではないかと思う。

 

今更ながら自分が選んだ素材に、とても愛着を感じる。

とはいえ、まだまだ素材に弄ばれている感があるのも正直なところである。

 

 

本日は、ターコイズのペンダントのご紹介でした。

一点ものです。

 

追記。

で、そのバンコクで仕入れた変わったターコイズで作ったアクセサリーたち。

帰国後、最初の個展であっさり全部売れてしまった。

おまけに写真も撮りそびれてしまった。

だからというわけではないが、あれからバンコクには行っていない。

今頃、地獄のように蒸し暑いだろうな。

 

 

 

 

2018.05.29

 

 

湖面に拡がる何かの波紋。

 

 

 

 

静かに拡がる波紋。

 

このリングは、見る角度によって全く違う表情を見せます。

春、桜の終わった頃に早朝の神社にて撮影をしたのだが、カメラマンもここからだと先ほどのアングルからとではまるで違うリングだ。とうなっていた。

 

リングは小さな立体彫刻だ。

ペンダントは、どちらかというとレリーフに近い。

一見、ブレスレットもリングを大きくした立体彫刻だと捉えられそうだが、その感覚で作ってしまい身につけるとなると、何かと障害が出てくる。

 

ピアスも、仕様によっては立体彫刻となる。

 

そんな意味でも、撮影はなかなか難しいようだ。

我輩の作ったものは、何しろ面が多すぎて、周囲のあらゆるものが写り込むのも難。

しかし、この頃ではその写り込みもナチュラルでよいのではないかと思うようになった。

 

理由のひとつとしては、デジタル化により撮影の時間は短く、デジタル処理の時間を長くすることで、理想の映像にいくらでも近づけられるようになったからかも知れない。

修正をかければかけるだけ、出来上がったものは、撮影者がいて被写体がある、そこに流れ合う人肌のような温度がどことなく薄れてゆくように感じる。

 

どんなものでもそうだ。

過ぎると、「作り物」ではないかという疑念がよぎる。

つまり「偽物」というニュアンスを含んだ言葉が心に浮かぶのは、人が感じる素直な感想だ。

撮影時に偶然が生み出すショットというものが、カメラの醍醐味であるように思う。

 

とはいえ、多少の修正が可能なことが都合のよいことも事実であったりするから、そのさじ加減を含めたものが、現代に求められる感性とテクニックなのかも知れない。

 

時代と共に、感性の示す言葉の領域も広がってきているのを感じる。

曖昧な領域。

 

そんなファジー感の拡がり、波紋の果ての辺りで生きている私である。

 

 

湖面リング。

 

 

 

 

 

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