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2021.03.21

与えられた時間が産んだ見えるものへの変化

 

 

 

 

 

 

今朝は、邪魔にならないリズムで雨が静かに降っています。

アトリエに出るつもりでいつものように身支度していたのだが、雨の音を聞いていたら静かに過ごす日にしようかと予定を変更した。

いつもリビングから見える山々には、白い雲が垂れ込めていてキャンバスに描いた絵のようにビルが並んで見えるだけで、味気ない風景画のようだ。

 

 

この頃手に入れた写真集に写真家がイメージに合わせて作成したCD がついていて、そのアルバムが今日の天気にとてもリンクしている。

 

音と景色は、その時の気分を随分と影響を与える。

 

 

 

 

 

先日の京都展の翌日、寄り道スケジュールを組み、昼間に六甲山に登り夕刻から摩耶山へと車で向かい夜景を眺めた。

 

 

 

 

 

日本3大夜景と言われる神戸から遠く大阪の夜景は、なかなかの迫力だった。

 

若い頃は、海外の統一されたスケール感のあるオレンジ一色の夜景にシンプルな美しさを感じてモダンに感じたものだったが、日本の狭い国土にひしめき合う色とりどりのネオンサインは、むしろ特殊な夜景かもしれないとふと気づいた。

 

私にとって昨年からの自粛期間というものは、それ以前からじわじわと気づき始めていた、異国への憧憬に対するある程度の満腹感を通して日本人としてここに生きている。

そのことへの覚醒的な気付きの時間だったように感じる。

 

こんな年齢になるまで一体何をやっていたんだろうというくらい、住んでいる街のすぐそばにあるものにも、通過するようにして見ていた景色やとどめることなく聞き流していた音が溢れていた。

 

人にはそれぞれに必要な時間というものがあるように思う。

そこには、正解はなく、早いも遅いも順番もなく、その人を取り巻く時間と変化を受け入れるタイミングが混ざり合っている。

 

学生の頃の友人が、この時世、誰もが羨む安定した職場にありながら、今月で早期退職を決意したと聞いた。

 

家族への説得と理解。

未来への不安を希望に変換する思考。

外野の声を留めない軽やかさ。

そのあらゆる勇気に驚いた。

 

やりたかったことを今から始めなければ、間に合いそうにない。

と。

 

この時世の最中、私の心までも晴々とした気持ちになった。

 

友人にとっての時間が実り多いもので満たされることを願っている。

 

そして、私自身も与えられた時間の中で、見えるものと見るべきもののチョイスの変化をしっかり受け止めてゆこう。

そんな風に思った。

 

人は、あと一歩の勇気がなかなか踏み出せないものである。

年齢を重ねると、その一歩はとても動かし難くなる。

一歩を動かす人の話は、なるべく耳にしたい。

いざ、自分の足を動かす時が来た時に、自分や周囲に言い訳を用意せずにすっと踏み出せるように…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2021.03.16

福知山個展の様子!!

 

 

 

13日より始まりました福知山個展より昨夜戻りました。

 

2年ぶり。

かれこれ18年ほどのおつきあいになりましょうか。

 

ライフスタジオPALさんは、お洋服や暮らしごと、日々にときめきをもたらすものを提案していらっしゃるライフスタイルセレクトショップです。

 

 

 

 

 

寒さの残る京都福知山での初日、霧雨の中お越しいただいた皆様とアクセサリーを通して色々なお話を出来たこととても嬉しく思います。

 

 

 

ディスプレイもギャラリーさんとは違った空間使いをさせて頂けるので、新鮮です。

 

 

 

 

 

長いお付き合いをさせて頂いておりますと、自分自身では気づきにくい作っているものの変化などを他人の目を通して語って頂く機会に恵まれます。

 

それは、とてもありがたい言葉です。

もちろん言葉は選ばれていらっしゃるのですから、その言葉の奥にあるものや真意などを知るきっかけとなります。

 

今の自分というものが、作っているものに反映されている。

 

だから日々の時間が大切であるのだと、改めて感じるのであります。

外からの受ける影響はより良いものでありたい。

しかし、影響を受ける自分自身が不安定、不確かであれば良きものも如何様にも変化する。

 

自分の土台を作るメンタルのコンディション。

全ての影響の中から良きリソースを抽出する力。

 

まずは自分との良きコミュニケーションをとる、次に周囲とのクオリティのよいコミュニケーションをとる。

 

人は点では生きていない。

 

線になった軌跡をお互いに振り返る時間があるというのは、とても良いことではないか。

それは、時間をかけた付き合いがなければ語れないものであり、その線となる時間の中の点の時間には、相手にとってさまざまな問題やもどかしさも当然生まれたこともあっただろう。

 

仕事だけではない、人とのコミュニケーションもそうではないかと思うのである。

 

人としての最低限のあるべき品性というものを欠いてしまうと、どんなコミュニケーションも長続きはしないのではないだろうか。

 

では、最低限のあるべき品性とは何か。

 

その核となるべきは、感謝の念ではないか。

 

あくまでも私の見解ではあります。

 

 

 

少し硬い話にはなりましたが、会期は21日まで。

火曜、水曜は定休日となります。

 

お近くに方、ぜひお運び頂けましたら幸いです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2021.03.07

京都福知山個展のご案内!!

 

 

先週木曜日を持ちまして、無事に佐賀個展が終わりました。

会期中は気温のアップダウンが激しい日々ではありましたが、ご来場頂きました皆様には心より感謝申し上げます。

 

再びお会いできる日を楽しみにしております。

 

 

さて、連続ではりますが週末より京都福知山個展が始まります。

 

 

 

 

末野美由紀アートジュエリー展

3月13日(土) – 21日(日)

10:30 –  18:00

 

ライフスタジオ・パル

京都府福知山市南本町267

 

 

期間中定休日の火曜、水曜はお休みとなります。

 

私は、初日13日に終日在店致します。

 

2年ぶりの個展です。

バリエーションを幅広く準備して伺う予定です。

最後の追い込み頑張っております。

しばらくぶりに皆様にお会いできるのをとても楽しみに致しております。

 

 

 

 

 

2021.03.01

佐賀個展の様子!!

 

 

先週土曜日より始まりました佐賀のギャラリー遊さんでの個展の様子です!

 

 

 

 

 

ギャラリー遊さんでの個展も今回で6回目となりましょうか。

かれこれ10年ほどのおつきあいになりました。

いつもお声かけいただきありがたく思っております。

 

作品を定期的に発表できる場があるということは、作り手にはとても励みになることです。

 

 

 

 

多くの方に支えて頂き現在の自分があるのだと、在廊中にお会いしたお客様方とお話ししながら佐賀での1回目展の時を思い起こしておりました。

 

初日はとても強い冷たい風が吹き、趣のあるストーブがほかほかとのどかな雰囲気を醸しだしておりました。

 

 

 

 

 

 

 

会期は今週木曜日4日まで。

最終日は午後4時までとなりますが、私も終日、在廊致しております。

 

気温も少しずつ暖かくなり、日没も遅くなり始めました。

ぜひ、お出かけくださいませ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2021.02.24

ケルン

 

 

 

 

 

もしか或る日、

もしか或る日、私が山で死んだなら、

古い山友達のお前にだ、

この書置を残すのは。

 

おふくろに会いに行ってくれ。

そして言ってくれ、おれは幸せに死んだと。

おれはお母さんのそばにいたから、ちっとも苦しみはしなかったと。

 

親父に言ってくれ、おれは男だったと。

 

弟に言ってくれ、さあお前にバトンを渡すぞと。

 

女房に言ってくれ、おれがいなくても生きるようにと。

お前が居なくてもおれが生きたようにと。

 

息子たちへの伝言は、お前たちは「エタンソン」の岩場でおれの爪の跡を見つけるだろうと。

 

そしておれの友、お前にはこうだ。

 

おれのピッケルを取り上げてくれ。

ピッケルが恥辱で死ぬようなことをおれは望まぬ。

どこか美しいフェースへ持って行ってくれ。

そしてピッケルの為だけの小さいケルンを作って、その上に差し込んでくれ。

 

 

フランス登山家  ロジェ・デュプラ

 

 

 

 

初めてこの詩を知ったのは、井上靖 著の「氷壁」でした。

ひらがなを交えた表記にしていますが、小説の中では漢字以外は、旧カタカナの表記となっていました。

 

胸がつかえて、涙が盛り上がるようにして瞬く間に溢れ出し、読みなれない旧カタカナ混じりの文字が涙で滲み、流れるように読み進められなかったのを今でも覚えています。

フランスの登山家が遭難し、そこで書き残した詩が事実上遺稿となったもので、登山家たちの中ではとても有名な詩とされていて、小説「氷壁」の中でも引用されていました。

 

 

 

 

 

 

ケルン。

登山の経験はない方でも、登山のドキュメンタリーなどで登山ルートや頂上に積み上げられた石を見たことがあるのではないでしょうか。

 

ケルンには、意味がふたつあると言われているらしい。

 

ひとつは、登山ルートに間違いはないという道標の意味。

そして、もうひとつはこの詩の中に出てくるように、慰霊碑の意味。

ケルンの石の下には亡くなられた方の慰霊の品などが埋めてある。

この辺りは危険です。注意してください。そんなメッセージを含んでいる。

 

何度となく山を歩きながらこのルートであっているのかと不安にあることがあるのだが、ケルンを見つけた時は物言わぬ友を見つけたようで、ほっとするものである。

私は危険な山を登るほどの実力と経験がないので、ふたつめの意味を示しているようなケルンには出会ったことはない。

いや、低山でも危険なことはたくさんある。

どんなにベテランでも一瞬のことで危険と化す。

 

既にふたつめの意味のケルンを何度となく目にしたのかも知れない。

 

この詩は登山家ロマンとしてうつりがちだが、どこかで現実に起こることだという緊張感をぴんと走らせながら、敢えて登山パートナーとテントの中で詩を暗誦するもののようだ。

 

 

視界もよく迷いそうなルートとは思えない場所で機嫌よく歩いている時、不意に出会う立派に積み上がったケルン。

その時、

もしか或る日。

の詩を思い出すのである。

 

 

平和であり続けた日常、足り過ぎた日常。

この1年間、我々に幾つものメッセージを携えたケルンが、誰の心にも積み上がっているのではないだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

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