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2018 July

2018.07.25

表裏一体な未知と既知

 

 

この道の先にある景色、そこで出会う変化。

この場所から動かない限りは、全て未知、未来のままだ。

向かって歩き始めると、未知は経験に、未来は現在を経て過去へと進行する。

 

 

 

 

 

この景色は、過去に訪れた地中海寄りのスペインの車窓から見た村のようでもあり、どこかの美術館で見入った印象派の絵のようでもあった。

 

どこか自分に深く関わったような場所のような錯覚に陥入り、溢れそうな郷愁の念に感傷的になった。

 

ここは、福岡県北部にある平尾台。

山口県の秋吉台に並ぶカルスト台地。

初めて訪れた場所だ。

 

でも、私はこの道を何度も何度も往復したような気がする。

未知ではなく、抹消されてしまった既知の目覚めではないだろうか。

 

初めて訪れた場所や時間が、懐かしくてたまらない気持ちになり、自分の中の奥深くとコンタクトが取れるような事がある。

そこには、最も重要な真実が包まれているような気がするのだ。

ひょっとして私は、あべこべな場所に生きているのではないか。

心の小さな隙間で、そんなことを思ってしまう。

 

 

極稀に飛来するこんな気持ちになる瞬間は、決して見過ごしてはならない。

堆積され続ける日常の狭間、それは、必ずどこかの景色を隠れみのに現れる。

 

もしも出会った未知のものが、まるで既知であるかのような強い確信を感じたならば、ためらわずにそこへ向かって歩き始める。

そんな軽やかさをずっと持ち続けていたい。

その時、例えどんなに年齢を重ねてしまっていたとしても。

 

 

 

 

 

2018.07.16

朝の静けさに

 

 

 

メモリアルなイベント写真展のために、カメラマンと朝陽の光を利用して作品撮影をすることになり登頂したことがあった。

山頂での朝陽と登り慣れていない私の速度を逆算し、登り始めたのは早朝5時だった。

とても寒い頃で、1メートル先も見えないほどの闇に包まれた山。

過去に登った人々の足で作られた、道というには心細いほどの道を登り始めた。

ヘッドライトと足元を照らす懐中電灯。

先を行く何度も登り慣れたカメラマンの後を登る。

 

人間の目は暗い場所でもしばらくすると慣れてくるものだ。

しかし、それはある程度周囲に明かりが残っている環境での話であり、月のない夜の山、大自然の中にあっては、そんな楽観的なものではなかった。

 

 

 

 

登りながら登頂という行為を生きることに照らし合わせ、感じ入ることがあった。

 

先が見えないとは、こんなに恐ろしく疲れるものなのか。

暗闇が恐ろしいのではなく、進むべき道がどこにあるか全く見えない。捉えられない。

これは、想像以上に神経が疲弊する。

 

我々は生きてゆく上で、先に生きた多くの年長者という道標を持っている。道標となる方に、直接教えを請うこともできる。

そして、希望や憧れ、モデルとなるもの目標を通して、イメージというものを持つことができる、それらは、暗闇を照らす明かりになる。

もしも、それらが一切なければ…

その中でたったひとりで歩まなければいけないのであれば…

自分が日頃いかに沢山の明かりに包まれて生きているか、明かりを頼りに生きているかを感じた。

 

懐中電灯を照らし、変則的にうねる冬の枯葉や朽ちた枝で埋もれた土の道を探りながら、ゆっくりと一歩一歩確実に。

道は真っ直ぐだろうと勝手に判断して、勢いよく踏み出した先が思わぬ誤算で傾斜になっていて転げおちかけたことが何度もあった。

気が緩んだ頃に、足元をすくわれる。

まさに人生教訓に満ちた登山だった。

 

三合目あたりで、ようやく空が白ばみ始めた時には、どれだけ楽に歩けたことか、速度も一気に上がった。

暗闇を知れば、明るさがあることがどんなに有難いことであるかを知る。

 

明けない夜はない。

 

どんなに天候が悪くとも、朝には光がもたらされる。

 

夏至の候、1日がとても長い。

いつもより少し早く起きて、今日という1日が始まる朝の神秘、輝きを眺めるのもなかなかに良いものです。

 

 

 

 

 

2018.07.07

ありですよ?ね?

 

 

 

今週は九州にとっては悪天候の極みのような週だった。

台風一過した途端に信じられないくらいの大雨、被災された皆様には心よりお見舞い申し上げます。

且つ、前線は北上しており、再び勢力の強い台風が北上中で進路が気になる週明けとなりそうです。

 

予定に固執せず、安全第一で行動した方がよいようです。

 

 

 

 

 

 

さて。

外出ができない天候になり、予定を大幅に変更した1週間。

 

さあ、何を!

 

気がつけば下半期にあっという間に突入していると改めてカレンダーで気づく。

引き出しの中の書類や郵便物の整理整頓のつもりが、仕事関係の倉庫としているロッカールームの整理整頓に発展。

 

なるべく機能的で探し物の時間がないようにストック、収納を心がけてちょっとした模様替えになってしまった。

あっちで使っているチェストを空にし、こっちに移動し、このカゴにこれを入れれば、この箱は処分でスッキリする。

この引き出しは一段とってしまって、このファイルケースを入れるか。

途中、喉が渇いてきたり、お腹がすいてきたりで、あっという間の時間経過。

おかげで雨によるブルーな気分もしばし忘れられた。

 

 

部屋に新聞や読みかけの本やこれから読む本があちこちにあると、なんとなく散らかった感がある。

急な来客時にタブレットや読みかけの本などをザクザクっと入れると、あまり見苦しくないのでは?と思いつき、木工作家さんの大きなウッドボウルを使うことにした。

 

なかなか便利。

 

調子に乗ってうちわや食べかけのお菓子、なんでもかんでも入れ始めないように気をつけます。

ほほほ。

 

しかし、このウッドボウル、作家さんは何を入れることを目的に作ったとおっしゃってたかなあ。

 

大きいのよ。

文庫本が10冊近くご覧のとうり、ほんとにザクザク入ります。

 

確か、観葉植物の鉢カバーだったような…

 

ご、めんなさい。

でも、ありですよ?ね?

 

 

 

 

2018.07.02

美味しいお茶

 

 

朝礼後、給湯室でお湯を沸かし社員全員の日本茶を淹れて、カップを間違えずにお茶を配る。

お昼時、休憩時。

新入社員の第一歩。いわゆる、お茶汲み。

私が入社した会社は急成長している頃で、昭和の女性社員にはほぼ必須とされた、このお茶汲みの慣習が全くない会社だった。

日本茶を飲む社員は所長はじめ誰もおらず、コーヒーマシーンで落としたコーヒーをそれぞれが飲みたいタイミングで飲む。

そんな社風だった。

社風というよりは、始業から終業まで一日中、電話が鳴り止まない会社だったので、むしろそんなタイミングを取ることが難しかったのだ。

 

 

 

 

 

 

そして、後に全く畑違いで全く環境、時間の流れも違う今の仕事を始めた。

今から10年ほど前のこと。

あるギャラリーでの個展の折、お客様が引けたタイミングでギャラリーのオーナーさんが、お茶を淹れましょうねとにっこり笑って手を洗い始めた。

 

接客でずっと話し続けていて喉が渇いていたので、とてもありがたい頃合いだった。

 

やかんを火にかける音がした。

湯冷ましに移し替える音。

急須から器に注ぐ音。

ゆっくりと時間をかけて。

 

おまたせしました、どうぞ。

 

静かに出された日本茶。

程よい温かさがカップを通じて心の芯まで届くようだった。

 

ひとくち。

 

そのお茶の美味しかったこと。

日本茶がこんなに美味しいと心底感じたのは、実はこの時が生まれて初めてだった。

あまりにも美味しかったので、おかわりをお願いして、茶葉の銘柄を尋ねてみた。

 

にこにこしながらギャラリーのオーナーさんが答えて下さった。

実はね、隣のお茶屋さんの並のものなのよ。ごめんなさいね。

 

ああ、失礼な質問をしてしまった。

茶葉の違いじゃない。

お茶の淹れ方が素晴らしいのだ。

 

私には、こんなお茶は淹れられない。

 

その日、私は若い頃の自分を思い出していた。

 

美味しいお茶の淹れ方は、みんな、一体いつどこで学ぶものなんだろう。

美味しい日本茶の一杯も淹れられずに、こんな年齢になってしまった自分が急に恥ずかしくなった。

 

コーヒー、紅茶、とにかくちゃんとしたお茶の淹れ方をまず知ろう。

豆や茶葉を買っても、せっかく親切に書かれている美味しい淹れ方の案内もまともに読んだこともない。

知ったふりして飲んでいた嗜好品のあれこれ。

 

 

煎茶だけではなくコーヒー、紅茶、どんな飲み物にも温度管理や蒸らしのための待ちの時間が大切だと分かり、砂時計を買ったのもその頃だ。

 

その日の気温、季節、気分などで淹れられるように、それまで砂時計を使ってお茶を淹れる時間感覚が身につきますように。

 

中でも一番難しく、味の変化が楽しめ、かつ味わい深いのは、煎茶のように感じる。

私は幸か不幸かお茶汲みがない会社に勤めていたが、当時、別な会社に勤めていた友人が、お茶汲みばっかりで嫌だ。もっと仕事がしたい。と羨望まじりな愚痴を言っていた。

今、思う。

友人は、あの時もう既にきちんとしたお茶の淹れ方を学べていたのだ。

 

若い頃に経験しておくべきことが身につかないまま大人になってしまうと、自分の不甲斐なさに恥じ入りたくなるような思いに突如、直面することがある。

たとえ周囲は気にも留めないようなことであっても、これは、自分にはかなり堪える。

 

 

それでも気付いた時から、学ぶことはできる。

真似ることもできる。

詳しい方に教えを請うこともできる。

 

年を重ねるごとに、知らないことが多いことに気付かされる。

 

むしろ、知っていることの方が極々僅かなのだ。

そう思うことで、新しい知識を取り入れることも楽しむゆとりとして切り替えられる。

それに関しては、年を重ねることで得てきた生きるテクニックと言えるかもしれない。

 

美味しいお茶を、誰かのために。

一杯。

そして、いつか銘柄を尋ねられるようになる日まで。