2017.12.28
2017.12.22
道具と風情
ちょっと面白いお店があるのよ。
数年前、友人に連れて行って貰ったお店は、タイムトリップしたようなものを集めたリサイクルショップだった。
そこで、ちょっとモダンなスリムさの小さめの洗濯板を見つけた。
思えば私の生活はこの一枚の洗濯板がきっかけで、少しずつ方向転換を始めたような気がする。
時短な家事が謳い文句の便利家電や、生活用品が溢れ始めている現代風潮の最中、まさに逆行した方向転換。
昔ながらの生活様式を取り入れると、確かにどれもこれも一作業、二作業手間がかかる。
こんな手間なことやめちゃおうかな、そう思うこともあった。
しかし、習慣化してくるとその手間を打ち消す何倍もの新しい連鎖的発見と楽しさに気づき、いつの間にか手間は、うるおいに変化し、機嫌のよい平穏さを日々感じるようになってくるのである。
道具というものは、手の代わりをつとめたり、人間の力ではどうにもならないことを補ってもらったりするためのもの。
もちろん時間の節約は、言わずもがな。
しかし、この頃では道具に道具自身のクリーニングという後始末までさせてしまうものもある。
人間はどこまで図々しく怠け者なのかとふと恥じる。
道具に道具以上の役目を求めるというのは、果たしてどうなんだろう。
人が道具の力を借りて作業を成すのだから、せめて道具のメンテナンス位は人がやるべきではないか。
と、自戒する。
不思議なもので。
手間をかければかけるだけ、生活のひとつひとつに命が入り込むようなきらめきを感じることがある。
風情や趣とは、手間をかけるからこそ生まれるものであり、その手間を省くと風情や趣は途端に飾りものとしてなり下がってしまう。
これは、生活だけでなくどんな仕事にも通じているように思う。
誰かが言った。
生活を粗末にすることは、自分を粗末に扱うことに等しい。
そんな人が良い仕事をするとは、到底思えない。
的外れな言葉ではないように思える。
良い仕事をする。
それは、目に見えない地味な手間の部分が作り上げるのだ。
飾りものではない純然たる風情や趣のようなものを、人の心にそっと残せるような仕事ができるようになれるよう、まずは生活からだ。
昔ながらの生活様式をちらちらと取り入れることで、そんな風に思うようになった。
我が家にやって来たちょっとモダンなスリムさの洗濯板に、今更ながら、ありがとう。
2017.12.21
大阪個展の様子
2017.12.17
冬の贈り物
昨日をもちまして、大阪個展が無事に終了致しました。
寒い中、お運び頂いた皆様に心より感謝申し上げます。
会場の様子は、写真の整理が未だ出来ておらず、ごめんなさい。
次回アップしたいと思います。
大阪より戻ったら、福岡も一気に冷え込み、連日、雪だるまマークの天気予報。
今年は、気温のアップダウンが激しく、ちゃんと冬になるのかな?
なんて思ったりしたが、今週末は冬らしいキンキンの冷え込み。
加えて、師走らしい慌ただしさに飲み込まれそうな列記とした12月の空気だ。
ここ数年、お歳暮なるものを自分自身に贈るようにしている。
まあ、俗に言う自分にご褒美というものだ。
ただそれは、身に付けるものではなく、生活で使うものと決めている。
贈り物とは、なかなか難しいものである。
自分で買うには贅沢品である。けれども、もしも手に入るなら幸せな気持ちになるだろうなあ、と思えるもの。
そんなものがよいのではないかと思う。
選ぶときにはそういうものをと心がけるが、受け取り主が本当に喜んでくださったかは、常に気になる部分でもある。
今年の私へのお歳暮は、カシミアのひざ掛けだった。
親しくさせて貰っているカシミアの織りの作家さんに、無理を承知で相談してみた。
カシミアのひざ掛け?
贅沢品だと分かってるんです。
でもですね、冬になるとYさんの織った手織りのカシミアのひざ掛けをかけて、本を読んだり、縫い物したり、書きものしたり、自分がおばあさんになってもずっと愛用できる思うと、実はそんなに贅沢なものではないのかなあと思うんです。
でも、やっぱり贅沢ですよね。
ううん、分かるわ。そういうのいいわよね。
そんなやりとりがあって、快く引き受けて下さった。
出来上がってきたひざ掛けは、なんともドンピシャな私好みな色のコンビネーションで、以前求めたストールとはまた違った織り方で工夫してくださって、これまたドンピシャなサイズで仕立てて下さってあった。
包みを開けると、すぐに椅子に腰掛けてひざにかけてみた。
もう、ふっかふかで気持ちよくて、あったかくてとろけそうな幸福感。
わあ、お願いしてよかったあ。
なんて肌触りがよくてあったかいんだろう。
冷え症の私は、これまで足元にヒーターを入れてなければ骨まで冷たくなっているような気がして、椅子に座ると同時にスイッチを入れていたのだが、今はヒーターの存在自体を忘れてしまっている。
誰が見るわけでもない私生活の中で素材のよい手作りのモノを、日常に使うということは、作り手と共に生活しているような気持ちになるものだ。
この感覚は、いちど生活に入り込むと、とても心地よいものである。
古い時代から使用されている普遍的と云われる素材たち。
その普遍的な素材には、やはり絶対的な魅力があるから普遍的と云われるほど長い間、素材として使われ続けているのだ。
その素材たちに敬意を払いつつ、その力を借りて形にする作り手がいて、出来上がったそれらを使うことで我々の生活は成り立っている。
私たちはその絶対的な魅力ある素材たちを選び、味わいながら日々の営為をこの世に命ある限り楽しむことができる。
これ以上の豊かさって果たしてあるのだろうか。
本気でそう思った。
2017.12.04
大阪個展のお知らせは2つ戻ってね!!
昨日から今日にかけて、今年最大の満月らしい。
我が家の中にも満月。
ナンキンハゼを寝転がって撮影したら、満月登場。
週末から始まる今年最後の個展に向けて少し体調整えるためにも、ゆるゆると仕事している。
そんな中、整理整頓病がふつふつと起こり、本日のターゲットは食器棚だった。
陶芸家の友人が我が家の食器棚を開け、上から下、奥を眺めながら、
食器多いなあ〜
と言われ、爆笑してしまった。
陶芸家が言うのだ、おそらくそうなんだろう。
好きなものを20歳の頃から買い集め、引越しを機に40歳目前で一度思い切って友人知人に好きのものを持って帰って貰ったことがあった。
あれから月日が更に経ち。
本日、整理してみて、再びお料理や食器好きな方に差し上げるおやつ会でも企画するかなと思った。
服もそうだが、随分と活躍したものでも、ふとモノとの卒業のようなものを感じる時がある。
好みも少しずつ変化してゆく。
気に入ったものは、値段に関係なくいろんなシーンで十分楽しむようにしているので、卒業だなと感じる時が来ても、買ったことを後悔することはない。
人は、生きてゆく上で、ずっと好きなもの、その時好きだったもの、それまで避けていたが好きになったもの、いろんな関わり方をしていきながら、変化していく。この世にあるものは人生を楽しむための借り物なんだと整理整頓しながら思うのであった。
食器棚の景色が変わると、気分が変わる。
収納を工夫しながらあっちに重ね、こっちに寄せてとやっていると、新しい使い方をふっと発見したりする。
今夜は、このグラスに日本酒、おつまみはこれに入れて、お膳を使おうかな。
そうだ、お部屋からお月見でもするかな。