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2023.02.23

自然光の美

 

 

やっと春の気配を感じられるようになって参りました。

一昨日、ベランダの沈丁花の花が咲き芳しい香りが冷たい空気とブレンドされて薫っています。

まるで、しっかりメロディの基軸を作る低い音のチェロのような香りです。

 

確かに混ざり合っている。

そんな感覚です。

 

 

 

冒頭の話題とは裏腹ですが、少し前に奥八女地方の日帰り温泉に出掛けました。

日本家屋の趣ある建物が多い八女の星野地方。

雪を被った村のシルエットは、版画の世界でした。

 

 

 

八女といえば日本でも有数のお茶処。

雪を被った茶畑もとても美しかったです。

のちに三日月がぽっかりと現れ、絵本にしてしまいたいくらいの静かな美しさでした。

日没の残陽の明かりと、月あかり、たまに通る車のサーチライトと街灯。

一軒家の集う部屋の控えめな温かな灯り。

辺りに降り積もった真っ白な雪が暗さの中で自然な明るさとなり、幼い頃のおばあちゃんのお家に遊びに行った時間にタイムスリップするようで、不思議と心落ち着きました。

景色を堪能したあと、しばらく車を走らせると、コンビニや大型ショップが次々と現れて追われるような蛍光灯な気持ちに一気に戻ってしまった。

 

少し、現代は明るすぎる生活をしているかも知れない。

時間や季節に即した過ごし方を意識した方がよいのかもしれない。

 

 

 

 

 

2023.02.01

見出される美

 

 

寒い寒い1週間が明けて、暫くぶりの青空が見れるとなり登山へ出掛けた。

 

今回は熊本県と宮崎県をまたぐ市房山へ。

全く知らなかったのだが、登山口が人吉にある市房山は、4合目に神社が鎮座しておりまして樹齢1000年クラスの市房杉群で有名とのこと。

これらの市房杉、つまり屋久杉に次ぐ立派な杉であるというのに圧倒的に屋久杉の方が知名度高い。

2番は駄目なのかな。

 

 

 

 

人吉市は、現在の静岡県の相良氏が入国し約700年にわたり球磨地方を統治した、九州の小京都と呼ばれていたそうです。

街並みはとても風情がありました。

 

平家の一門が壇ノ浦の戦いに敗れ一部の人々が人吉に居を定めつつ、都の華やかさを思い生まれたという、キジ馬、花手箱、羽子板は、郷土玩具として男の子にはキジ馬、女の子には花手箱や羽子板が土産にされていたそうです。

目にしたことのある方は多いのではないでしょうか。

 

 

下山後訪れた歴史民族店で7センチほどの一番小さな花手箱を求めました。

手描きされた椿の絵はひとつひとつ趣がありました。

そして、つい先程下山中に市房山で偶然撮った写真を思い起こした。

 

 

 

枯れた椿。

枯れても尚、どことなく気品を感じた椿で写真に納めたもの。

市房杉の静かな迫力は、まさに気高い品を感じました。

 

見える人にだけ見える、そんな見出される美。

 

憧れます。

 

 

 

 

 

 

2023.01.25

形という発露

 

 

 

専門の大学へも通わず師匠もいず右も左も分からぬまま制作活動を始めたことは、長い間、コンプレックスとしてパラサイト化していた。

これを取り除くためには、結局のところ専門の大学に通い、師匠と出会うことでしか解決できない。しかし、異業種からの転身でその時間を確保するには年齢が過ぎている。

20年ほど前、もはや制作活動と同時進行の自分流でいくしかないという着地点に辿り着き、学びと仕入れを兼ねて色んな国へ足を運びなるべく自分の目で多くのものを見て感じとることに注力することにした。

これは、座学よりも自分には向いていたように思う。

 

 

 

 

決意を行動に起こし始めてから10年くらい経った頃だっただろうか。

パリでおなかいっぱいにギャラリー、美術館、博物館を訪れ、最後に大きくパンチ食らったのが装飾美術館だった。

古き佳き時代がなす芸の結晶、巨匠たちの恐ろしいほどの技術、過呼吸になるほどの圧倒的な感性、敬意、自分の足元、立ち位置、半ば辟易。それらが混在したカオスを引きずりながらセーヌ河沿いを歩いた。

冷たい風が頬を叩く。

コートの襟を立て、ポケットの中のカイロを握りしめながら思った。

「新しさとは何だ」

「とらわれることの全てを拭い去り、もっと己を自由に表現することでしか、もはや新しさは生まれない」

「まず、己をすることからだ」

 

積み重ねることが厚みとなり奥行きとなる。

厚みの中に五感を通して感じた断片を織り交ぜ、自分の言葉や色や音、気に変換し思考となりいつしか形として発露される。

 

新しさの基準は誰が決めるのか。

惑わされてはいけない。

奴隷になってはいけない。

全ては自分というフィルターに通し感じることに忠実であろう。

 

思い起こせば当時のセーヌ河沿いの新しい決意が、ようやくパラサイト化したコンプレックスをフェードアウトへと導いてくれたように思う。

 

奥行きのある厚みは、おおよそが無駄と思われそうなインプットから形成されているのかも知れない。

のちに整理、統合する構築力が必要される。

あれから20年。

今がそのステージであるような気がしている。

 

 

 

 

2023.01.20

お気に入り冬アイテム

 

 

 

大阪生まれの白金カイロ。

ご存知の方どのくらいいらっしゃるのでしょうか。

 

 

 

冬山の魅力を知ったのが5年ほど前、身体は常に動いているので皆さんがイメージするほど寒くはないのですが、とにかく手先がめっぽう冷たい。

使い捨てカイロもいまひとつ。

そこで、偶然知ったのが使い捨てカイロが主流となる以前からあったという白金カイロ。

使い方は、ジッポライターのような容器にベンジンを入れて火を近づけると、プラチナ触媒が化学反応を起こし熱を放出させるという仕組みらしくベンジンの量の調節で軽く12時間以上は暖かさをキープするのです。

 

これが冬山には最強。

もちろん冬山だけではなく、日常生活でも大活躍。

寒い朝にはアトリエへの道すがら握りしめながら、制作中には専用ベルトのポケットに入れて腰に巻く、自転車の移動の際もポケットに入れておく、これまでは寒くなるとなんとなく買い物を避けるようなメニューになりがちでしたが、ポケットに手を入れるとぽかぽかするのでつい寄り道しながら散歩も兼ねるようになった。

冬のひだまりの中をポケットの中の暖を確認しながら歩く散歩はなかなか気持ちの良いものです。

頭寒足熱ならぬ頭寒手熱。

 

カバーを見て気づいたのだが、今年で誕生100年なんですね。

このハイテクな激動の時代を経て100年も商品が生き残り販売されているとは、本当にロマンすら感じます。

なので、やたらと周囲の人に勧めておりましたら小さい頃使っていたという方がちらほら。

南国生まれの私が知ったのは、つい3年前。

ロングセラーであり続けて欲しいので、ブログにまでアップしているというお気に入りぶりです。

あまりにヒットしたので2個使いをしております。

 

容器にベンジンを入れ着火する少しのひと手間が、マッチを擦って煙草を吸う束の間の豊かさを追体験できるかも知れません。

と、煙草は吸ったことないんですけどね。

 

冷え性、よろず使い捨て感覚に抵抗のある方はぜひお試しくださいませ。

 

 

 

 

 

2023.01.14

おむすびのためのお皿

 

 

圧倒的にお米派の私は、炊飯器をやめて土鍋で炊き始めて10年くらいになるだろうか、食す度に日本人でよかったと思う。

新米の季節には、あまりの美味しさにお米は世界一の食の神に君臨すると疑いの余地なくそう思うのである。

 

ところでおむすびは皆さんどんな形に握りますか。

これは、面白いもので同じ家族の人間でも握り方が違ったりする。

人生で初めて食べたおむすびはおそらく母親かおばあちゃんの握ったものではないでしょうか。

我が母のおむすびは俵型でちょっと変わっているのがサイズがばらばらなのが特徴だ。

最後に握ったであろうものは、まるで寿司ネタのないシャリみたいなかぼそさ。そんなばらばらなサイズのおむすびたちは、お皿に盛られるとなんだかたよりなげで映えない感じ。

なぜサイズがばらばらなのか一度も尋ねたことはないのだが、いざ食べ始めると胃袋に合わせて家族みんながそれぞれちょうどよいサイズを選びながら食べれるので、お皿は決まって空になる。

長年家族の健康と台所を仕切ってきた母親なりの無駄を無くす知恵なのだろうと推測している。

亡くなった祖母は厚みのある丸型でふたつ食べることは難しいほどのずっしりとしたおむすびだったが、不思議とやわらかくていつも両手で持ってふわふわと食べていた。

私自身はと言いますと、気がつくとさんかくむすびが多い。

 

 

 

 

お米が好きならば、おむすびは大好きなわけで我が家にはおむすびのためのお皿が何種類かある。

大きめの塩おむすびに海苔を巻いた時には、さんかくむすびで三角皿。

小さめの俵型の塩おむすびに梅干しや昆布の佃煮などを添えるときには耳のような形をしたお皿。

 

 

 

 

おむすびがふたつの時には富士山の形のお皿。

五穀米や赤米のおむすびの時には、柄入りの丸皿。

 

器で様子が変わる。

おむすびのテンションも上がっているのではないだろうか。

 

今は器を替えて楽しんでいるのだが、幼い頃しばらく住んでいた鹿児島県の島の家には、ブーゲンビリアやモンキーバナナ、月桃の花が敷地内に咲いていた。

日曜になると庭先の月桃の葉におむすびを包み、趣味の釣りに出掛けた父親の元へ母親と弟と3人でお散歩がてら届けに行き、家族で食べたことを覚えている。

あの葉っぱはとてもいい香りがして、広げると瑞々しい緑に真っ白のおむすびがきらきらと光り特別感があり、まるで高貴なおむすび様といった感じだった。

確か、殺菌作用もあるとかで暑い島での生活の知恵としてどの家庭でもやっていたように記憶している。

いくつも皿を替えておむすびを楽しむよりも、月桃の葉のお皿の方が数段豊かであるように感じるのは、物質過多な今という時代ゆえだろうか。

 

今となっては容易に再現できないのが寂しいものである。

 

 

 

 

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