Information

Daily blog

2021.07.21

オイルランプの魅力

 

 

 

 

 

 

今、住んでいる街の少し路地に入った住宅街にヨーロッパのものをメインに集めたアンティークショップを見つけた。

ステンドグラスや真鍮のドアの取手やカットグラス、重厚感のある家具などが窓越しに見えたが、その日は営業が終わっていた。

そんな話を知人にしていたら、偶然にもよく行くお店だということで、先日一緒に訪れてみた。

 

 

 

 

1970年代のアメリカのガラスランプメーカー、グラスディメンションズという会社のオイルランプを見つけた。

 

ガラスのスープ皿を張り合わせたような円盤型のランプ。

 

下のガラスの内側がミラー張りになっていて、中央に穴が開いていて芯はガラス管の中に収まっておりオイルを吸い上げるので、芯が曲がり炎が歪むことはないように計算されている。

 

ガラスの中に溜まったとろっとしたオイルの表情もガラス越しに見ると美しい。

今見ても形もモダンであり、炎の高さも食事や入浴、ナイトテーブル、あらゆるシーンでも邪魔をしない理想的な位置にある。

しかもこのガラス本体は手作りという。

円盤の大きさも大小あり、しかも内側がミラー張りでない上下ガラスのものあった。

しばしウキウキと悩ませて貰った。

 

 

 

 

 

デッドストック商品ということで、梱包されている説明書や箱に至るまで当時のままの様子が伺える状態でお渡ししてくださった。

 

お店の方々も全く気取りもなく、このランプと出会った先の展示の様子やお店を始めるにあたってのいきさつなどいろんなお話を聞かせてくださった。

 

以前住んでいた街には、日本の古道具屋があり定期的に覗くのが楽しみだった。

今住む街でまた新しく立ち寄れるお店ができたことがちょっと嬉しくなった。

 

現在は照明もLEDの普及でUSB充電スタイルのコードレスで、好きな場所へ持ち運べるモダンなものがいっぱい出回っている。

これらはいわゆるオイルランプの未来形である。

 

しかし、電圧の違う国へ行くとその器具はそのままでは使えない。

将来USBの標準仕様が変化し、更にアダプターが必要になる時がくるかもしれない。

結局、昔ながらのものは、国境や時間を越えられる自由さと新しさが常にある。

そんな風に思った。

 

 

貫いて一周するくらいのこだわり。

やっぱりそういうものに惹かれるんだよね。

 

 

 

 

2021.07.09

気持ちが戻る場所

 

 

 

 

蝉が鳴き始めた。

そろそろ梅雨も明けるのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

慌ただしい月日の流れにカレンダーも未だ6月のままだった。

 

 

 

 

先日の鹿児島個展から福岡へ戻る途中、中学高校時代を過ごした北薩で新幹線を下車し、暫くぶりに同級生と会った。

 

どこに行きたいかと尋ねられ、リクエストした地は長島方面。

梅雨の晴れ間でお天気もよく、友人も長島方面に連れて行こうと思っていたらしく、とっておきの場所があると連れて行ってくれたのが針尾公園。

夕陽の綺麗な海岸線に位置する阿久根市から車を走らせると、橋で繋がっている長島は美味しい焼酎でも有名になった土地でもあり、橋の下の海流は潮と潮がぶつかり合い、なるとが渦巻いているのを見ることができる。

橋を越え島の先端からフェリーで超えると牛深、天草へと繋がっています。

 

ここは、景色が大変に素晴らしく車のみならずバイクやサイクリストには最高のコースである。

 

初めて訪れた針尾公園は、瀬戸内の山から眺めた景色によく似ていた。

ああ、随分と山にも登っていないなあ。

思いっきり深呼吸をして全身で伸びをした。

 

若い頃は、都会に憧れるもので見向きもしなかった景色が、今はとても宝に思える。

父親の仕事の関係で5年ほど住んだ町だったが、借家住まいだったがその場所に立つと不思議と故郷のような気持ちになる。

 

夏休みの海岸でのラジオ体操当番や、春に海岸に打ち寄せるわかめを家族で採りに行ったこと、野生の鹿が住む小さな島に海水浴に行ったこと、友達と電車に乗って映画館に行ったこと。

 

今思えば、とても贅沢な時間だったのだ。

 

小さい頃に住む町は、田舎であればあるだけ大人になってから訪れると味わい深いものであるように思う。

 

憧れる都会も必要だが、回帰する田舎町も必要だ。

どちらも知っているということは、生きてゆく上で出会ういろんなシーンを目にするたびに、日頃仕舞われている自分だけの記憶がふわりと現れる。

それは、まるで心が手足をゆっくりと伸ばすように身体中の力が緩み、この上ない安らぎを与えてくれる。

都会も田舎も等しく価値がある。

 

公園から景色を眺めながら思った。

 

オーダー制作が終わったら、久しぶりに山へ登ろう。

 

 

 

 

 

 

 

2021.06.14

鹿児島個展のご案内は、ひとつ戻ってね!!

 

 

 

 

 

 

チリリン。

 

意識をしていなかった瞬間に部屋中に響き渡る風鈴の音。

 

 

 

 

 

ここのところ真夏のような暑さが続くので、先週、いささか早い気もしたが風鈴を出してみた。

通常は軒下に下げるものだが、我が家のベランダには適切な高さに下げる場所がなく、リビングのカーテンランナーに吊るすことにした。

風流な音も、あまりに風が強い日など断続的に鳴り続けると気に障る音になってしまうもの。

これならばその日の天候次第で、カーテンを引くようにして好きな場所に移動させられる。

 

 

早朝から午後にかけて降り続いた雨もようやく夕方には上がり、青空と夕焼け、雨雲の残像が絶妙に混ざり合った、今日という日の日の入りにしばし見とれる。

近くの山々の稜線は鮮明に浮き上がり、山肌は雨に洗われてみずみずしく清潔な緑を放っていた。

 

夕方の家仕事に気を取られていたら、突然、澄んだ風鈴の音が響き、同時にベランダからふんわりと膨らむようにして夜風がリビングに入ってきた。

はっとして、風鈴を下げている方を見上げた。

 

あ。風。

いいなあ。

こういう間。

 

それまで無機質に動いていた自分が、一瞬にしてリセットされる。

 

 

深呼吸してください。もう辺りは暗くなってますよ。

その音は、そんな風に知らせてくれた気がした。

 

青空を背景に鳴る風鈴、おしなべて人の心に安らぎを与えし風流。

夜風を知らせる風鈴、日の緩ぶ思いもとくと広がりしいとをかし。

 

日本人の持ち合わせる間というもの。

日本文化の全ての道のはじまりにして核となるもの。

どんなに世の中が進化変化しようとも、忘れないように生き続けたいものです。

 

 

 

 

 

 

 

2021.06.08

丘の上に住む人々

 

 

 

 

 

 

朝陽の綺麗な静かな朝だった。

 

アトリエに向かうため駐輪場からゆっくりと自転車を押しながら、いつものように後輪の空転する小気味良いラチェット音と共に気分よく歩いていた。

 

前方に左半身を杖で支えるようにして立っている白髪の女性が、下り坂の道の前方をじっと見つめている姿が見えた。

何を見ているのだろう。

なんとなく邪魔をしてはいけない気がして、いつもより時間をかけて自転車を押し進めた。

 

白髪の女性の先には、スーツ姿に身を包む若い女性の後ろ姿があった。

坂道を下る後ろ姿をずっと熱心に見つめている。

若い女性は下り坂を下り切って角を左に曲がる時、まるで白髪の女性が立っているのが見えているかのようにして、ちらりと坂の上を見上げて小さく手を上げた。

それを見ると白髪の女性はゆっくりと右手を杖から離し、手を少しだけ上げて合図をした。

「いってらっしゃい。」

小さな声が聞こえた。

 

おはようございます。

 

あら、おはようございます。

 

私の気配にやっと気づいた白髪の女性は、優しさに溢れた笑顔で何か私に言いたそうな素振りを残したまま、ゆっくりと一軒家の門の前の方へと歩いて行った。

 

生きてきた気品のようなものとしての軌跡ともいえる皺と白髪。

その笑顔は柔らかい朝の陽射しに映えてより一層光るように見えた。

自分は将来、こんな笑顔を他人に見せるような人間になれるのだろうか。

いつものように自転車で坂道を駆け下りながら、つい先程見た坂の上から見送っている白髪の女性の後ろ姿と笑顔が、心の中にいつもと違う静けさを与えた。

 

 

 

 

 

 

曇り空の朝。

 

今朝は、若いお母さんが坂の上から坂道の下の方を見ている。

若いお母さんは、短く手を振った。

しばらくするとまた手を振った。

近づくと坂道をランドセルを背負った小さな女の子が、ジグザグに歩きながら何度も振り返ってお母さんが立っている方角を見上げているのが見えた。

その度にお母さんは、にこにこしながら手を振る。

下り切った坂道の角を左に曲がる時、女の子は最後にもう一度お母さんを見上げて大きく手を振って走り出した。

お母さんも力一杯手を振っていた。

 

おはようございます。

 

あ、おはようございます。

 

口元に我が子への慈愛に満ちた笑顔の余韻が輝く素敵なお母さんだった。

 

誰かに後ろから見守ってもらっているという安心感は、人を信じるという心を育てるのかもしれない。

人が本来持っている優しさという温かさが湧き出るような気がした。

 

 

坂道の上に住む人々。

それは一見不便な生活のようだが、平地に住む人々とは少し違った時間の流れがあるように思う。

 

坂の上から見送る人と見送られる人が心の中で会話したこと。

ひとり坂道を下りる時、そよ風と共に歩き、会話したこと。

暮らしゆく中でそんなことをいつしか思い出すそんな趣きが積み重なって生きてゆくことは、とても素敵なことであるような気がする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2021.06.05

満足という豊かな循環

 

 

 

 

 

どんより天気や雨の続く湿気の多い季節、梅のさっぱりした酸味が恋しくなる。

そうそう。

昨年漬け込んでいたアルコールなしの梅ジュースが飲み頃になっているはずだ。

保存瓶陳列棚から下ろしてみることにした。

 

 

 

 

 

 

梅の果肉は取り出してコトコトと煮詰めて、少しだけ蜂蜜とブランデーを入れてみたところとってもいい感じのバランスになり、思わずにやり。

 

これは、カマンベールと相性よさそうだ。

もしくは。

白ワインのゼリーにソースジャムとして載せて、ベランダで培養中のミントの葉を飾り程度ではなくたっぷり盛り付けよう、さっぱりとした食後のデザートシメになりそう。

ならばこのデザートのためのメインは何がふさわしいか。

メニュー会議を始めてみた。

食べたい。作りたい。

頭の中の空が、一気に青空に変わったような気がした。

 

巷では、時短家事目的の便利調理器具があふれている。

便利な器具を使い時間を確保し、やるべきことやりたいことに集中するのもよかろう。

私自身はというとフリーランスの特権を活かして、なるべく行為自体の時間も含めて楽しもうと思うタイプなので、レンジも炊飯器も電気ケトル、トースターも全て処分した。

キッチンはびっくりするくらいすっきりなった。

キッチンのスペース以上に明らかに心の中の空間が広がったという感覚が衝撃的だった。

テレビのない生活は気がつけば10年に。

だからといって不自由さを感じた事はない。

 

自家製なるものを少しずつ増やしてゆくと味覚が冴えてくる。

正確には、区別がつきやすくなると言った方がよいだろう。

たまに気分を変えたくてできあいのものを購入することもある。

?ちょっと違う…何が違うのかなあ…

 

裏面の賞味期限の日付を見ながら、期限内に消費してしまう自信のなさが充満してくる、次に食品ロスの言葉がよぎる。

買ったその日にのうちに気分で買ってしまったことを後悔するという結末になる。

 

決して自家製が美味しいという自慢話しではなく、ただ食して自分の安心する味であり、満足感が得られるということだけ。

 

この満足感というものは、きっと時間をかけて作ったというところが大きいのではないかと思う。

満たされるには、手間と時間を惜しまないということが基本ではないだろうか。

 

それはあらゆることに通じているように思う。

 

簡単に手に入るものには、気持ちの置き所がなく簡単に捨ててしまいがちだ。

全ての時間には奥行きが内在している。

そこは、気持ちや心が寄り添う最適の場所だと思う。

誰かが誰かのために使った時間。

その時間を味わうことができる豊かさが人を真に満足させる最大の力。

満足という豊かさの循環が途切れない、そんな世の中であり続けて欲しい。

 

モノ作りの端くれがそんな願いを心に思ふ、水無月の今宵も曇り空。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Page top

Instagram