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daily life

2019.04.21

嗚呼、春爛漫

 

 

 

連日、山活な話が続いておりますが、今回は春爛漫な画像をお届けです。

 

 

 

 

 

福岡県太宰府近辺にはトレッキングを楽しめる山々が幾つかある。

なかでも全てのコースを制覇すべく4回連続で登っている山が、毎回

違った顔を見せてくれるから全く飽きない。

ソメイヨシノが終わった後に堂々たる咲きっぷり。

八重桜がたわわに美しく。

 

 

 

少し歩くと、新緑が眩しく

 

 

 

傷ひとつない梅の実たちは作り物のように美しく。

 

 

 

スギの木に絡みついた山フジがあまりにも見事で、まるでツリーの飾りのようになっていたのに、驚き。

 

 

少し歩いて振り返ると、ティアラをつけたような様を発見してまた嬉々とする。

 

 

そうやってあっちにふらふら、こっちにふらふらと、

やっと登山口まで辿り着き、しばし山行が始まる。

 

お昼の場所を決めた辺りには、再び絵になる一本桜。

土塁跡地に咲く一本桜の傍を通り過ぎる親子。

春の空にのんびりと飛行機雲。

 

 

 

 

下山コースの少し日陰の多いエリアでは、同じ方向に両手を広げたようにして新芽を携えたシダ群。

アンテナ受信中?

 

 

あら、可愛らしいシダの赤ちゃん。

 

 

 

そうやって今日の山活はかなりのんびりで、植物撮影が楽しかった。

 

 

嗚呼、春爛漫。

 

 

 

 

 

 

2019.04.13

私が住む世界

 

 

あ!れ!

ブログアップずいぶん遅くなってしまっていたのですね。

ごめんなさい。

 

2ヶ月ほど前からほんとにほんとに慌しくて、ここのところ読書の時間もかなり少ない。

このせわしいリズムはどうやら上半期いっぱい続きそうだ。

 

 

 

 

でも、私は働く事は苦にならない性分。

寧ろ働かない日が続くと不安になってしまう。

だから忙しさに感謝だ。

 

そんな状況下、隙間な時間を捻出、スケジューリングしながらトレッキングはコンスタントにやっている。

これが巷で話題の働き方改革。

私流ってところだ。

 

 

先日は、脊振方面へとトレッキング。

幾つもあるルートの中でも福岡市内の登山口からスタート。

いろんな顔を見せてくれる登山道で一番気に入ったこの大高木群。

まるで異国の空を見上げているようだった。

それもその筈。

この木は元々アメリカの西に多く生息するメタセコイヤという高木種であるという。

世界で最も巨樹と言われている木は、アメリカのセコイヤ国立公園にあるジャイアントセコイヤの木らしい。

樹齢2000年から2800年で、高さが83メートルというから、ここのところ福岡にもラッシュ建設のタワマンより高いのでは。

 

現地では、ジェネラルシャーマンという名がついているのだとか。

よく名付けたものだ。

和名では、世界爺と訳されているのだとか。

これまたよく訳されたものだ。

 

こんな種類の木が福岡の地で見れるなんて30年住んでいるというのに、全く知らなかった。

トレッキングを始めてよかったとしみじみ思う。

 

 

ひとつドアを開けるとそこには今まで全く知らなかった住人たちがたっくさん住み、その世界たるや4次元的桁違いな広がりで、その広がりに心底驚き、興奮している。

今まで私は、なんて狭い世界で生きていたのだろう。

なんて狭い世界でものを見ていたのだろう。

 

思えば私はこんな経験がこの10年間で2度目だ。

もっと早く知りたかったと思いつつも、それ以上に間に合ってよかった!

そんな思いだ。

 

山で見かけた気になる植物が春山にはたくさんあり、写真に収めて帰宅後名前を調べることにした。

アプリを入れれば一発で分かったであろうが、時間をかけて地味に調べる事にした。

全く検討がつかない花の名を調べるのは、なかなかに時間がかかった。

それでも調べている途中、他の山で撮影していた花の名前が偶然に次々と分かり、ひとり嬉々とした。

調べるという行為の中で、目につく求めていない情報が知識を肥やしてゆく。

誰かが辞書のメリットを説いていた。

理解できる気がする。

 

 

ただ肝心の知りたい花の名前が分からない。

似て非なるものの多いこと多いこと。

今日は諦めてまた明日調べるか。

と、思った矢先、発見!

 

こ、これだ!!!!

 

 

 

 

ツクシショウジョウバカマ。

 

ショウジョウバカマは、北海道から九州、台湾まで生息する花でどこのものも淡い紫色の花をつけるらしい。

しかし、九州のものは白い花であるというところから、ショウジョウバカマの前にツクシという地名に因んだ名前がついているという。

やや暗めの斜めの土地に咲き、花はとても美しいのだが花が終わるとどんどん背が高くなり、しまいにはまるで別な植物に変貌してしまう珍しい植物だという。

 

なんだか、謎めいていてゾクッとした。

 

植物に詳しいわけではないが、気になって撮影したものがちょっと興味深い種類であったことが分かると、他の植物も気になり始める。

 

なるほど。

 

こうやって、この世界の住人たちは植物や鳥、木、虫、地質、歴史、民話、風土記、知識を増やしながら愉しんでいるわけなのか。

 

世界は広い。

自分がどこに立つかで、どんどん世界は広がる。

ひとつのドアを開けることで、私の住む世界の景色は変えられる。

ドアの奥には、更に新しいドアを見つけることができる。

ひとつのドアを開けることは、無数のドアの存在を知ることである。

 

ドアは常に目の前にある。

 

そんな気がしている。

 

 

 

 

 

 

2019.04.05

かたちあるものたちの個性美

 

 

 

エッグアートをされていらっしゃるお客様から、ディスプレイに使えるのではといろんなサイズの卵の殻を頂いていました。

 

 

 

 

 

来客時にはアクセサリーディスプレイ棚になる本棚シェルフを、来客のない時は自分好みなディスプレイをして季節感を楽しんでいる。

桜もあちこちで咲いている心地よい陽気。

芽吹きの香りがする風に、緊張もほぐれる思いがする。

少し春様なしつらえに、卵。

いいかも。

 

ピカピカに磨いたガラスのフラワーベースに落とし込んだり、陶製のフラワーベースに蓋代わりに乗っけてみたり、光の当たる窓辺にランダムに並べてみたり。

 

爽やか空気と、今から何かが生まれるという創造の気が部屋中に満ちて、新しいデザインヒントがひらめくとよいな。

そんなことを思ってひとりうきうきしました。

 

先日、遊びに来た友人が、

え?これ、生たまご?

怪訝そうに尋ねた。

 

持ってみたら分かるよ。

 

息を潜めておそるおそる持ち上げる友人の手先と謎が解ける瞬間の表情を見るのが結構面白かった。

 

かたちあるものたちの美。

全てが所有している個性美。

 

それらの美よりも出しゃばることがなく、むしろ個性美を尊重できるような作品作りをしたいと改めて思った。

 

 

 

 

2019.03.26

味わうセンサー

 

 

 

 

 

今年に入ってから、10日に一度くらいのペースで行っているトレッキング。

週末に行った約6時間かけての縦走コースの途中、あちこちでたくさんの春の息吹を発見した。

 

 

 

 

 

なんの生産性もないのに、なんでわざわざきつい思いしに行くのか?

と、よく聞かれる。

 

物事の感じ方は千差万別。

この質問者に対して私的な答えはただの言葉にしかならないと思い、私は決まってこう言うのだ。

 

その答え、確かめるために一緒に登ってみる?

 

尋ねた半分くらいの人は即答で断られるが、半分は行きたい!!と前向きな反応を示す。

で、実際に登った人達は、決まってまた行きたいと言う。

翌日にはトレッキングシューズを買いに行き、買ったシューズを写メして来た人もいる。

やる気満々になりウエアの大人買いをして、次はいつ行くのかと連絡して来た人もいる。

 

お。伝染してる、伝染してる。

思わずにやり。

 

若い頃は、どこか前のめりな野心や欲があり、あれもこれもやらなきゃと浮き足立ち、うわべだけの情報に踊らされ、ヒステリックで多呼吸な生き方をしていたと思う。

実際に、呼吸もかなり浅かったことだろう。

止まったら終わりだとばかりにその流れで進み続け、ある時、気力と体力のバランスが交差する年齢に差し掛かり、疲労が積もり気力低下の現象が現れる。

そのスパンはどんどん短くなり、頻度が多くなってくる。

 

嗚呼、このことを先輩達は言っていたのか。

 

まず、それらを受け入れることがスタートだった。

自分の身体と内面に投資をする時間を確保するようにした。

 

まず、ヨガで実際の浅い呼吸を正し、筋肉の緊張をほぐす、同時に食事のリズム、質、内容を見直す。

意識的に太陽の光を浴びる。

そんな見直しのあれこれの延長にトレッキングが加わった。

 

これまで休日というものを殆どとらずに仕事をしてきたのだが、晴れた日を狙って定期的にトレッキングを始めたことで、それが休日であるという新しいチャンネルになった。

仕事の効率と集中力があがり、メリハリがついてきた。

 

始めた頃は呼吸が乱れ全く周囲の景色を愉しむ余裕もなかったが、経験回数が増えてくるとその日のペースを探りながら安定した呼吸をコントロールしつつ、新しい発見ができるようになってくる。

 

先週、初めての縦走を体験しながら思い返してみた。

この5,6年の自分の生活改革の共通点は、競い合うステージからの離脱ではなかっただろうか。

 

元々、平和主義な方で物事への勝ち負け目線はなかったのだが、

こうでなければ、最低限ここまでクリアしていなければ、自分は人より劣っているのだから。

自分は出遅れているのだから。

そのような自分への叱咤があふれんばかりにあったように思う。

しかし、その対象となる人が実在したわけではない。

 

現実の自分が理想の自分に競争していたのだろう。

ひとり相撲。

 

ヨガの教えや、素材を生かした食の自由さ、等しく与えられている雄大な自然の営み、この5,6年で出会った世界は、どれももっと早く始めていればよかった、そう思うものばかりだった。

 

利便性と時短を声高に謳う昨今、我々は「味わう」という奥行きのある時間をどんどん捨ててしまっているように思える。

 

味わうことは、時間をかけることであり、手間をかけることだ。

それが内的豊かさの蓄積となり、外的に漂うゆとりというものに転身する。

 

かつては選択が少なかった余興も、いまでは多様複雑化している。

能動的に不便な環境に身を置かなければ、味わうセンサーはどんどん鈍化、劣化、欠損、しまいには消滅してしまい、人間と動物が逆転してゆくのではないかと不安になったりする。

 

味わうセンサー。

それは、五感がスムーズに起動することである。

 

この世にある限り、余るほどの感動を体験したい。

これは、私の変わらぬ欲望だ。

 

たとえどんな修行を積んでも、私はこの欲を捨てられないだろう。

 

 

 

 

 

2019.03.13

北九州個展のお知らせは、ひとつ戻ってね!!

 

 

 

2度目に訪れたスイスでは、ぜひ手に入れたいものがあった。

 

銀色のシンプルなフォルムで、品の良い繊細な柄の彫りのカランダッシュのペン。

 

 

 

 

本当は、ずっと万年筆が欲しかったのだが、なかなか気に入るものが見つけられず、字も上達せずでどことなく諦めてしまっていた。

でも、この年齢になってくると、ボールペンでは済まされないシーンが度々出てきて、やはり万年筆に代わるものを持っておかなければと思い始めていた矢先に、スイス製のカランダッシュというペンメーカーのものを知った。

もちろん日本の文房具店でも、ネットでもポチッと購入できる。

でも、私は文房具店そのものがとても好きで店構えが気になる。

購入は次回のスイスの旅まで待つことにした。

 

チューリッヒで訪れた老舗文房具店は、内装もお客様も店員も全てジェントルマンな雰囲気が充満していた。

大声で話す人は、誰もいない。

子供さえ大人のようなふるまい。

まるで図書館のような空気感だ。

 

9身頭と思われる抜群のスタイルの販売員の女性は、試し書きをするための机と革張りのゆったりとした椅子のコーナーへと案内してくれた。

なるほど。

文字を書くシーンに忠実な環境で、試し書きをさせてくれるのか。

考えてみれば当たり前だ。

そもそも立ったまま試し書きして購入というのも、おかしな話だ。

100円の使い捨てペンじゃないんだから。

 

書き味、重量感、たたずまい。

文句なしに好みであった。

繊細な彫りの模様も、迷うほどの種類でどれも魅力的だった。

買い物決断の早い自分にしては、ずいぶん目移りした。

 

中でもこのメーカーのペンを個人的に高く評価した点は、実はキャップを閉めた時の音だ。

精密な作りに裏付けされたとっても落ち着いた音で、品物の確かさを使う度に感じさせる。

ペンは、文字を書くための道具であるが、その役目を終えキャップを閉めた後、ペンが道具を越えて自尊心を表すような音で少しだけ存在を示す。

それが、ペンを使う者を安寧な充足感とでも言おうか、独特の満たされた気分にさせてくれるのだ。

たとえ字が美しくなくても。

 

誰かに何かを伝えるためのペン。

そのペンを使い終わった後、余韻に浸れる少しの間。

その間に心地よさと豊かさを与えてくれる。

これは、アナログなものにしか味わうことのできない贅沢な間だ。

 

ものがたてる音は、品質を如実に表しているように思う。

グラスの縁と縁が触れ合って優しく乾杯をした時の音。

ドアを閉めた時の音。

コーヒーカップを置くとき、テーブルとカップが調和してたてる音。

ソファに腰掛けた時、クッションが身体を受け止め吸収する音。

身につけている衣擦れの音。

 

どんなに上等な装いでも、そのものが出す音が安っぽいと、品質、いや隠された本質を垣間見た気がして途端にがっかりする。

 

 

人は、それ以上にそうであるのかも知れない。

 

口から出る言葉が、その人が持つ音であるならば、たいそう気をつけなければなるまい。

せめて、醜い言葉は使うまい。

 

キャップを閉めながら、そう思うのであった。